その十.赤い月が照らす
夜空に灰色の瘴気が薄く漂っている。
街灯に照らされた道の片隅に、一台の自動車が止まった。
「ここだ。下りろ」
「承知しました」
「はいー」
時久の言葉に従い、吹雪とサチは自動車から降りる。
目の前に、黄色いテープで封じられた地下街への階段があった。今回のために地下街は一時閉鎖状態になっているらしい。
「犬槙、窮鼠封じは持ったな?」
「はい。ちゃんと夕子さんからもらってきました!」
「小娘、地下街の地図は?」
「だから何故私だけ小娘呼びなんですか。持っていますよ」
吹雪は眉をひそめつつ、腰のポーチから地図を取り出してみせる。
時久はその抗議を無視して満足げにうなずく。
「よろしい。群れの規模はまだ小さいと見られているが、それでも奴らの増殖力は相当なものだ。手持ちの窮鼠封じで間に合わないと感じたらすぐに退け」
「退却した場合、その後はどうするんですか?」
「その場合は夕子と一色、神室と、手が空いていれば真島や佐竹が出る」
「ほとんど戦闘班総出……できればわたし達だけで済ませたいな」
緊張の表情で襟元に触れるサチに対し、時久は若干まなざしを和らげた。
「無理はしなくても良い――では、そろそろ地下街に入れ」
「了解しました! ――吹雪ちゃん、行こっか」
「はい……あの、御堂さんはこのまま会社に戻るのですか?」
吹雪がたずねると、時久はうなずく。
「ああ。だが、しばらくはここにいる」
「そうですか。わかりました」
吹雪もうなずき、踵を返した。
すでにサチはぱたぱたと地下街の入り口へと歩き出している。
その背中に続こうとした吹雪に対し、時久が声を掛けた。
「小娘」
「はい、何か?」
吹雪はきょとんとした顔で振り返る。
そんな彼女に時久は近づき、少し身を屈めた。
途端――吐息がかかりそうな程に時久の顔が接近する。
「ッ――!」
今までにないほどの至近距離。
吹雪の胸がどきりと高鳴った。その手が反射的に動き、絶句兼若の柄へと伸びる。
が、即座に動いた時久の手がかろうじて抜刀を阻止した。
「……落ち着け馬鹿者。忠告をするだけだ」
「……すみません。ここまで間合いが詰まるとなんというか、びっくりして」
ぎりぎりと手首を締め上げられ、吹雪は頭を下げる。
時久は小さく舌打ちすると、吹雪の手を離した。そして低い声で彼女に耳打ちする。
「……気をつけろ。今宵は瘴気も多い。何が起きてもおかしくはない」
「え……あ、はい……」
「窮鼠そのものはすぐに始末できるだろう。だが、決して油断するなよ」
「……いつになく親切ですね?」
いぶかしむ吹雪に対し、答えはなかった。
不自然な沈黙を残し、時久の長身がゆっくりと吹雪から離れる。見上げた時久の顔は、いつも通りむっつりと不機嫌そうだった。
「俺からはこれだけだ。とっとと行け」
「呼び止めたのは貴方でしょう……では、行って参ります」
吹雪は呆れてため息を吐きつつ、地下街の入り口で待つサチの元へと急ぐ。
時久はその背中をじっと見送った。
二人の姿が黄色いテープを越え、地下街の闇の中へと消える。
時久はおもむろに夜空を見上げた。
「――満月か」
薄く漂う瘴気のはざまから、不気味なほど紅い月が覗いていた。




