その四.獣の声を聞いたか
鬼鉄をその方向に向け、時久は怒鳴った。
「こそこそするな! 文句があるなら出てこい!」
その声は、かすかなこだまを残して消えていく。
時久はしばらく鬼鉄を手に睨んでいたが、やがて渋い表情で警戒を解いた。
「……逃げたな」
「どうします? 追いかけた方が――」
「追わなくていい」
「でも」
依頼では、工場に棲み着いている化物を一掃するよう指示されていた。
言葉を続けようとする吹雪を、時久が見下ろす。
相変わらず眉間に皺が寄っていて、その表情は険しい。だがそのまなざしはいつものように敵意が滲むものではなく、それどころかどこか気遣わしげに見える。
いつもと異なる時久のまなざしにかすかな不安を感じ、吹雪は口を閉じた。
「……一つ聞きたいが、小娘」
「な、なんでしょう?」
吹雪は思わず姿勢を正す。
鬼鉄を肩に担ぎ、時久は目を細めて吹雪を見つめた。やはり、どこか心配そうに見える。
「……貴様、最近何か獣の声を聞いたか?」
「獣……?」
予想だにしなかった時久の問いかけに、吹雪は一瞬虚を突かれた。
しかしすぐにこめかみに手を当て、じっと考えこむ。
「獣は知りませんけど……犬の声なら、しょっちゅう聞こえますよ。この前の廃デパートでも、あんなにうるさかったじゃないですか」
「……あの、一週間前に行ったところか?」
時久はいっそう険しい表情になる。
その顔にさらに不安が強まり、吹雪は自分の手をぎゅっと握り合わせた。
「え、えぇ。それにさっきもずっと聞こえていたでしょう? 今はもう聞こえないですけど」
「俺には聞こえなかった」
「そんなバカな、すごい声で鳴いていましたよ。御堂さんが鈍感なだけじゃ――」
さすがに言いすぎたかと思い、吹雪は口を押さえた。
しかし時久は特に気にする様子もなく、渋い顔で顎を撫でている。
「……そうかも、しれんな」
「え?」
「俺は少し、目の前の戦いにのめり込みすぎるところがある――そのせいで、犬の声が聞こえていなかったのかもしれん」
あっさり自分の非を認める時久に、吹雪は思わず目を見開く。
それまで『自分の否定は一切許さない』といった言動をしていた時久の姿と、目の前で考え込む時久の姿には大きな隔たりがあった。
「あの、御堂さん……?」
「今日はもう帰るぞ」
「え、で、でも見回りとかは」
「意味がない」
鬼鉄を鞘にしまいつつ、時久はばっさりと言い切った。
吹雪はその言葉に眉をひそめる。
「……意味がない、とは?」
「もし『これ』が、俺の考えている奴の仕業だとすれば」
鷹揚な仕草で、時久は壁に突き刺さった三本の鉄骨を示す。
その次の言葉はひどく不穏な響きを伴って、吹雪の耳に刻みつけられた。
「――この辺り一帯の化物はすでに根絶やしにされている」
* * *
自動車の中で、時久と吹雪はかれこれ三十分近く沈黙を続けている。
運転する時久の隣で、吹雪はじっと車の外を見つめていた。
朱塗りの高層楼閣やコンクリート製のビルディングには煌々と明かりが灯り、夜を照らしている。その様は幻想的ではあったが、今の吹雪には見とれる余裕はない。
やがて耐えきれなくなった吹雪は口を開く。
「……あの、御堂さん。質問していいですか?」
「許す。なんだ」
時久の返答は短く、いつもどおり素っ気ない。
吹雪はちらっと彼の横顔をうかがった。いつもと同じように眉間に深く皺が寄っているが、何か深く考え込んでいるように見える。
「……あの鉄骨を飛ばしたのは、一体何なんですか?」
「……今は答えられん」
「ですが」
「俺としても答えたいところだ。だが――この話は少しややこしい。俺が勝手に話せば、ひどく傷つくかもしれん奴がいる」
「傷つく……?」
吹雪は困惑し、首をかしげた。
赤信号で自動車が止まった。時久はハンドルを指先で叩きつつ、難しい表情で口を開く。
「なんというか、アレだ、あの――『でりけえと』な問題なのだ」
「で、でり」
あまりにもぎこちない時久の発音に吹雪は思わず閉口する。
青信号。時久はそんな彼女をぎろりと睨んだ後で、アクセルを踏み込んだ。自動車が発進し、まだ車の通りがまばらな道路を走り出す。
「ひとまず帰ったら俺から社長に伝える。――後は、社長次第だ」
「そうですか……」
再び静寂が訪れた。
吹雪はちらりと時久をうかがう。両手の指を落ちつきなく絡ませ、何度か口を開く。
そうしてもじもじしているうちに、二度目の赤信号が来た。
吹雪は意を決して、言葉を発する。
「あの」
「なんだ」
短い時久の返答。
話しかけておいて言葉に悩み、吹雪は脳内の辞書を探る。しかし結局こんな時に使うようなうまい言い回しは思いつかず、諦めた。
そして仏頂面で待っている時久に対し、小さな声でその言葉を口にする。
「……助けてくれて、ありがとうございました」
「ふん……なんだ、寝ぼけたのか」
「いや寝ぼけてないです。私は一体どれだけ冷血な人間だと思われてるんですか」
ぶんぶんと吹雪は首を左右に振る。
そんな彼女に対し時久は鼻を鳴らし、にやりと不敵に笑った。
青信号になった。




