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「とても綺麗ですね」
視界を埋め尽くすほどの花畑を眺めながら言う。
(花を見るふりをしてさりげなく手を離そうかしら…)
なんてことを考えながらしゃがもうとするが、その前に公爵様に腕を引かれた。あちらに私の一番好きな花があるのです。と言って進んで行ってしまう。
そうなっては手を離すこともできずに大人しくついて行くしかない。
先程の開けた花畑よりもどんどん屋敷の裏側へと進んでいく。陽の光も良く当たらないような屋敷の裏側まで来たところで、段々怪しいと思い始めた。
(こんなところに公爵様の一番好きな花が…?)
「公爵様?あの」
たまらず声をかけようとした時、公爵様が立ち止まった。
「これがその花です」
その花を見て、私は息を飲んだ。
細い茎。棘も一切ない無防備な姿。決して豪勢ではない花びらの数。薔薇と比べたら華やかさは随分と見劣りする。けれど根元から先に向かって青から紫へと色を変えるその美しい花弁は、観る者を惹き付ける。
風に弄ばれる度に散った花びらが舞い上がり、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
甘い香りが鼻腔をくすぐるが、同時に苦味が胸の中に広がっていく。
「この花はルヴェイユリリーと申しまして、先代のノベルディック公爵夫人、私の母が愛した花なのです。私がまだ幼い頃に亡くなってしまったのですが、それ以来父が、そして私が代々大切に守り続けています。花言葉はまた逢う日まで。母が私たちに残した、再会を誓う花なのです」
あんなにも頑なに繋いでいたエスコートを解き、その花の元へ近寄り愛しそうに撫でている。その柔らかな表情から、その花をどれだけ大切に思っているのかが伝わってくた。
誓いの花。なんてロマンチックなのだろう。これを守り続けることで、公爵様はお母様を思い出しているのだろうか。
(…ルヴェイユリリーと、言うのね)
この花になら私も思い出がある。ただし、公爵様のように涙が出るほど美しいものでは無い。欲にまみれた、絶望の中の汚らわしい世界。その世界の中で唯一私にさした光。もう失ってしまった、たった一つの優しい思い出。思い出すにはあまりにも苦しい。
"似合うよ。アリシアに、良く似合う"
封じ込めていたはずの記憶の中の声が蘇る。もう二度と思い出したくなかった思い出が、まだ鮮明に私の中に残っていただなんて。
「…アリシア嬢」
私の様子がおかしいことに気づいた公爵様が、心配そうに眉をひそめながら私に近づいてくる。
(だめ、だめ。今はだめ)
今の私はアリシアじゃなくなっている。優しくて繊細で美しいアリシアじゃない。
醜くて強欲で汚れたアリシア。私の本当の姿が蘇って来ている。
「わ、私、少し気分が…。先に部屋に戻ります」
一刻も早くこの場から去らなければ。醜い姿を公爵様に晒す前に。
「アリシア嬢、お待ちください」
止める公爵様を無視して踵を返そうとした時、足がもつれる。元々訪れる人が少ない場所なのだろう。日頃から踏みしめられていない地面はいとも簡単にふらつく私の足をとる。
「アリシア嬢!」
◇◇
「アリシア嬢に気に入って頂けたら…。…アリシア嬢?」
声をかけるが、彼女は聞こえていないようだ。一見いつもと変わらない美しい顔でルヴェイユリリーを見つめている。だが、無表情すぎて違和感を感じさせる。まるで自分の中に渦巻く感情を必死に抑えようとしているような、表情に出さないように立っていることが精一杯だというような印象を受ける。
その瞳が不安げに揺れ始めたのを見て、思わずアリシア嬢の方へ一歩踏み出す。
「…アリシア嬢」
(だめ、だめ。いまはだめ)
明らかにパニックになっているような心の声が聞こえてくる。なのにそれを外にはおくびにも出さずに平然と立っている。
その強さに息を飲んだ時、アリシア嬢の唇が動いた。
「わ、私、少し気分が…。先に部屋に戻ります」
いや、やはり取り繕うことが出来ていない。突然気分が悪いと言って去るだなんて行動をアリシア嬢はとらない。いつものように演技できなくなるほど、精神的にショックを受けている。
「アリシア嬢、お待ちください」
引き留めようとした時、ふらついていたアリシア嬢の足がぬかるんだ地面にとられた。瞬きする間もなくアリシア嬢の体が傾ぐ。
「アリシア嬢!」
間一髪、その体に腕を回して抱きとめる。下は先日の雨で泥と化していた。そんなところに倒れ込んでいたらドレスだけでなく髪も肌も全て汚れていただろう。
安堵したその瞬間、頭の中に甲高い悲鳴が響き渡った。
思わず顔をしかめて体を強ばらせる。アリシア嬢ではない。いや、アリシア嬢は声には出していない。なら彼女の心の声だ。
悲鳴の後は、ただあの泣き声が続く。何がそんなに彼女の恐怖を煽ったのか分からない。分からないまま彼女の顔を確認しようとする。
「アリシア嬢、大丈夫ですか?」
さすがにここまで自我を保てなくなっているのだから、表情に現れているはず。そう思いながら彼女の顔にかかる髪をどける。その下から現れた顔を見て、唇を噛んだ。
「え、えぇ…。大丈夫ですわ。公爵様のおかげで助かりました…ありがとうございます」
平然と、していた。
いつもの顔と何ら変わりは無い。ただ僅かなほほ笑みを浮かべたアリシア嬢が、腕の中にいた。
もうかけられる言葉はなかった。彼女が大丈夫だと言うのなら、私はもう何も言えない。
私が心の声を聞いていてだけで、状況は転んだ彼女を抱きとめた、アリシア嬢は転ばずに済んだ、ただそれだけなのだから。
アリシア嬢が何を恐れているのか、それを問いただすには、力について打ち明けなければならない。だがそれは、犯してはならない禁忌。
まだ妻では無い上に、正式な婚約さえもすんでいない。形式上ではアリシア嬢はまだ他人。身内ではない者には打ち明けることが禁じられているため、アリシア嬢に話すことは出来ない。
「公爵様?私はもう大丈夫です」
ずっと抱えられたままであることに不審感を持ったアリシア嬢が不思議そうに私を見上げてくる。その仕草一つ一つが全て演技だと思うと、胸がじりつく。
話したくは無いのに。このまま抱き上げて部屋へ連れて帰って、何が怖いのかと問いただして、それをこの世から消し去ってしまいたい。
「…ご無事で何よりです」
それが出来ない、もどかしさ。
この力があればなんだって出来ると思っていた。取引先が何かを企んでいようと全て分かってしまうし、誰が自分に敵意を持っているのか、把握した上で人付き合いができる。
公爵家当主であるうえで、この力はこの上なく素晴らしいものだった。はずだ。
なのにまさか、この力を持っていてなお不可能なことがあるとは。
(…アリシア嬢、あなたの、心が欲しい)