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1. 日常

耳元で、確かに目覚ましは鳴っていたはずだった。

「…どうして?」

私は目の前にある時計を見て、思わず呟いた。

そう。確かについさっきまで目覚ましが鳴っていたはずなのだ。私はそれを止めて、10秒したら起きて布団からでようと思っていた。

——なのに、何故。

「なんで30分もたってるのおおおおお!?」

私は思わず叫んだ。ご近所に聞こえて恥ずかしいとか、叫んでいる暇すら無いとかいろいろあったが、叫ばずにはいられなかった。

だが、いくら叫んでも嘆いても時間が戻るはずはなく、できることといえば一秒でも早く家をでることだけだ。

私はベッドから転げるように勢い良く降りると、大急ぎで教科書が入った鞄と制服を手に階段を駆け下りた。その勢いで洗面所に飛び込み身支度を整える。前髪がひどい寝癖だったが、見なかったことにして髪をいつものポニーテールに縛り、パジャマを脱ぎ捨て黒と白の夏服のセーラー服に着替えた。そして来た時と同じ勢いで洗面所を出る。

リビングへ行くと、コーヒーとトーストの良い匂いがした。

ほとんど条件反射で腹が鳴ってしまう。本当は朝食を食べる時間なんか微塵も無い。しかし、朝を抜くと昼休みまでの4限の間、クラスメイトに腹の音の大合唱を披露することになってしまう。私のささやかな女子としてのプライドがそれだけは避けろと叫んでいた。

「おはよう。琉花。今日もお寝坊さんね」

もうすかっりスーツを来て身支度を整えた母が、コーヒーを片手に新聞を開いて、私の顔をちらりと見て言った。その顔には意地悪な笑みが浮かんでいる。

「もうっ!起こしてくれたっていいじゃん!」

思わず母に叫んで、返事を聞く前にテーブルに用意してあったトーストにかぶりついた。イチゴジャムの味がふんわりと口の中に広がる。その甘さに酔いしれそうになるが、朝食を味わう時間も母に怒っている時間もない。リスのように頬が膨らむほどトーストを口に押し込み、もうすっかり冷めているコーヒーを流し込む。

「もう高校生なんだから、自分で起きなさい。それと、朝起きるたびに叫ぶのはやめなさいね」

そう言って、母は悠然とコーヒーを飲んだ。その姿に文句のひとつも言いたいところだが、これでもかとトーストを貪っているためできない。せいぜい睨むのが精一杯だ。母はどこ吹く風とさらりと無視して新聞のページをめくっていたが、不意に思い出したように言った。

「そうそう。それと、母さん今日から一週間、出張になったから」

げほっ、と思わずコーヒーが口から飛び出した。

「やだ汚い」

「聞いてないんだけど!?」

制服を汚さないように急いでティッシュでふく。だが事態はコーヒーどころではない。

「だって、今朝決まったんだもの。会社から電話があってね。なんかトラブルがあったみたいで」

困ったようにわざとらしくため息をついてみせる。

だが、本当に困ったのは私のほうだ。

「父さんも出張でいないのに!?私飢え死にしちゃう!」

「いい機会だから、料理のひとつも覚えなさい。いつまでも親に甘えてるんじゃありません」

「でもっ」

「ほら、そんな文句言ってる時間なんかあるの?」

げ、と壁に掛けてある時計を見た。

ホームルームが始まるまで、あと30分。ちなみに、学校までは普通に歩いて40分ほどだ。

下手したら、ホームルームどころか授業まで遅刻である。

「いってきます!」

私は慌てて立ち上がって、残りの3分の1ほどを口につめた。

「いってらっしゃい。留守番よろしくね」

母の言葉に返事をする余裕はもちろんなく、隣の椅子に置いておいた鞄を掴んで廊下を走り抜けた。飛びつくようにして玄関の扉を開け、通学路を全力で走る。女子としてのプライドを踏みつけてでもさっさと家を出るべきだったと後悔の念がわき上がってくるが、今さら遅い。

もうこうなったらマラソン選手の如く走って行くしかない。制服で目立つしスカートだから道行くおっさんにちょっとサービスしてしまうかもしれないが、背に腹は代えられないのだ。

さっき飲み込んだばかりの朝食がでてこないことを祈りつつ、私は踏み込む足に力を込めた。

「げ」

だが丁度そのとき、一目で高級車だと分かる車が私の横を通過した。見覚えのありすぎるそれを目にして、思わず口から正直な感想が漏れる。

その車は私を通り過ぎると、10mくらい先で停車した。

すぐにその車に追いついたが、私はあえて無視して駆け抜けようとした。が、あともう少しだというところで手を掴まれてしまった。

「ごきげんよう、琉花。もう、無視するなんてひどいですわ」

私の手を掴んでいる少女は天使のごとく輝かしい笑顔でそう言った。

腰まである癖の無い髪をもった、おっとりした雰囲気の美少女である。

私と同じセーラー服を着ていて、同じ学校に通って、ついでにクラスも一緒だが、普通の高校生とは言いがたい。

だいたい、今時「ごきげんよう」だなんて普通の高校生は使わない。

この言葉遣いから分かるように、彼女は筋金入りのお嬢様。そして、私の幼い頃からの親友でもある神田川静乃である。

「“ごきげんよう”静乃。悪いけど私時間がないの」

私はそう言い残して行こうとしたが、静乃が手を放してくれるはずはなかった。

「このままでは遅刻は確実ですわよ。だから、さぁ、お乗りになって。これなら問題なく間に合いますわ」

その細腕のどこにそんな力があるのか、静乃の手に力がこもった。さりげなく逃げようとしてみても、びくともしない。

走って暑かったはずなのに、冷や汗が流れた。

「いっ、いぃぃよ!遠慮しとく!だって、ほら。私、徒歩通学で登録してあるし!」

私がこれだけ静乃の車に乗るのを固辞するのには理由がある。

静乃の車はとにかく目立つのだ。しかも彼女自身お嬢様という立場から非常に有名で、高級車での通学は入学して4ヶ月たった今では学校の名物と化している。入学初日にして遅刻という大惨事を犯した時に一度だけ乗ったことがあるが、学校中から注目されながら登校するというのはそれは居心地が悪かった。しかもクラスに行ったらいろいろ根掘り葉掘り聞かれるわ先生にまでからかわれるわであっという間に顔と名前を覚えられ、学校1有名人に静乃と一緒に成り上がってしまったのである。しかも、私の場合初日なのに遅刻しそうになったということまで広まり、入学1日目にして遅刻魔のレッテルが貼られてしまった。それ以来、どんなにやばくてもこの車には乗るまい、と心に誓ったのだが——。

「それくらい、どうとでもなりますわよ。さぁ、琉花。どうぞ」

私の手を握ったまま、恭しく車のドアへと導く。だがその目は獲物を逃すまいとする獣の目だった。

「……」

手を掴まれたまま、それでも私はせめてもの抵抗でじりじりと後ずさった。

静乃は、その容姿を最大限に生かしたとびきりの笑顔で言った。

「とっつかまえて車の中へ入れておしまいなさい」

「かしこまりました。お嬢様」

その後私の身に起こったのは、ご想像通りのことである。






「よお。琉花。朝っぱらからえらい注目受けてたな」

机につっぷしていた顔を上げると、見慣れた男子生徒がにやにや笑って私を見下ろしていた。

夏も盛りなだけあって、こんがりと肌がよく焼けている。髪は抜いて定規で測っても10㎝もないくらい短く、一目みて野球部だと誰もが分かるだろう。それほど高くない身長はおそらく彼の今一番の悩み事だが、年々見上げる角度がきつくなっているこっちの身としては、このくらいでと止まっていただきたいと思っている。

こいつの名前は宮下竜司。保育園から高校1年の今までクラスが同じという、ある意味奇跡の腐れ縁の幼なじみだ。

「入学初日の遅刻魔再びか?」

「うるさい」

きつく睨んで言ったが、竜司は私にかまうことなくケラケラと笑った。

黙ってキリッとしていればそれなりに格好良く見えるのに、顔に締まりがないためせっかく整った容姿も台無しだ。

黙っていればねぇ。と、締まりのない顔で笑う竜司を見て心底思ってしまう。

「全力で走れば間に合うはずだったんだから。途中で静乃に拉致されたの!」

「そりゃあいい。これから毎日そうしろよ。そうすれば、毎朝遅刻ぎりぎりに教室に走り込んでくることもなくなるだろ」

「あんたね。拉致されて見せ物にさせられる立場にもなってみなよ。しゃべったこともない生徒や先生が、生暖かい目で見てくるんだよ!」

「あらぁ。わたくし、拉致なんてしてませんわ」

突然、背後で声がした。

「うわぉ!?」

私と竜司は同時に椅子を鳴らして振り向いた。

そこには、話題にあがっていた当の本人が、ニコニコ笑いながら立っていた。

「い、いつの間に…。竜司気づいてた?」

「いいや!」

竜司は激しく首を横に振った。

本当に、いつの間にいたのだろうか。気配すら感じなかった。

思わず恐れおののく私の内心を知ってか知らずか、静乃はちょっと困ったような笑顔を浮かべ、可愛らしく小首をかしげた。

「もう、琉花ったら。走ったところで間に合わなかったのは分かっていたでしょう?琉花を想う一心でお乗せしましたのに、それを拉致だなんてひどいですわ」

いかにも悲劇のヒロインのように目を伏せ、悲しそうにため息をついてみせる。

美少女がそうするのはとても様になっていて思わず私が悪かったと言いそうになってしまうが、騙されてはいけない。

「いや、あれは完全に拉致だったからね」

車に乗せるために命令をだした時のあの無邪気な笑顔を私は忘れない。

静乃はますます悲しそうな顔をしてみせるが、それが演技だということは私も竜司も長い付き合いでわかっている。彼女は一見おっとりとした、たおやかな少女だが、根は強かで計算高いのだ。今では学校中の人間がそのことを知っている。なにせ毎朝学校中の注目を浴びながらも平然と高級車で学校に登校している人間が、たおやかなはずがない。

だが、世の中うまくできているのかそうでないのか、学校の人間よりもはるかに長く親密に付き合っていても、それに気づかない鈍い奴というのも存在する。

「あ、静乃。ここにいたのか」

噂をすればなんとやら。

爽やかな笑顔をふりまきながら、1人の男子生徒がやって来た。

竜司に比べると肌が白く、髪も長い。背負った弓と長い筒から、弓道部だということが分かる。顔に浮かべた柔和な笑顔はとにかく爽やかで、彼の穏やかさと共に、整った容姿も際立たせていた。

一見竜司とは正反対な彼だが、ようく見ると、身長や容姿などよく似ているところがある。だが、それもそのはず。彼の名前は宮下新司。正真正銘、竜司の二卵性の双子の兄である。そして、静乃の恋人でもある。

「ごきげんよう、新司。遅かったですわね」

さっきまでの悲しそうな顔はどこへいったのか、静乃は嬉しそうに笑って新司を迎えた。

新司は静乃の隣に立って、ごく自然な動作で彼女の腰に手を回す。

「ああ、朝練やってきたんだ。弓道場から見えたけど、今日は琉花も一緒に登校してたね。また遅刻かい?」

ピクッと一瞬眉間に皺がよった。だが新司は気づかなかったようで、ニコニコ笑っている。

鈍い。とにかく鈍い。竜司のように私をからかうためにわざと言うなら分かるが、こいつはただ思った事を純粋な気持ちで口にしている。そういうところが余計に腹立たしい。

ちなみに私の名誉のために言っておくと、静乃の車に乗ったのは例外として、ギリギリの時間で教室に駆け込む事はあれど遅刻したことは一度もない。

「それが、こいつ静乃に拉…」

全て言い終わる前に静乃に脛を蹴られ、竜司は声にならない悲鳴をあげてしゃがみ込んだ。

「竜司、どうした?」

足下で行われたことには気づかなかったのか、新司は不思議そうに首をかしげている。

竜司を黙らせた当の本人は、さも心配そうな顔でしゃあしゃあと言った。

「練習のしすぎで足でも痛めたんじゃありません?最近特に頑張っていますものね」

「そうなのか。練習もほどほどにな。体壊したら意味ないぞ」

「……っ」

そうとう強く蹴られたのか、竜司はまだしゃがみこんで悶絶しいる。

「いや、今のは…」

あまりにも竜司が哀れなので弁護してあげようと思ったが、静乃が笑いかけてきたので可愛い我が身のために口を噤んだ。

「今のは?」

「ううん、なんでもない。あっ、そういえば私、今日から一週間だけ一人暮らしする事になったの。母さんが出張で」

これ以上被害を大きくしないために咄嗟に話題を変えた。

新司は特に怪しむことなく「ふぅん」と相づちをうつ。

こういう時、彼は簡単でいい。

「まぁ。一週間なんて無謀ですわ。お料理できないでしょう」

なかなか痛いところをつかれた。

だが、私が家事全般できないのは私たちのなかでは常識なことだ。

「そうなんだよねぇ。さすがに一週間カップラーメンで過ごすのは…」

自然と口からため息がもれる。食事が楽しみの一つでもある私にはとんでもない苦行だ。それに、溜まっていくだろう洗濯物のことも心配だった。洗濯機はどうやって起動させるのか、それすら分からない。一緒に洗ってはいけないものもあるらしいが、それもわかるはずがない。

「この機会に覚えればいいじゃないか」

新司らしいお気楽かつ優等生な意見だ。だが、新司は分かっていない。誰もいないときに1人でやってなんとかなるなら、この世にカップラーメンは必要ないのだ。

「母さんと同じこと言わないでよ。それに誰もいない時にやるだなんて、それこそ無謀だね。火事がおきちゃう」

おそらく、なにが無謀なのかまったく理解できてない新司は「そうか」と言って、難しそうに眉間に皺をよせた。だが不意に、良い事でも思いついたようにパッと笑って言った。

「なら、竜司借そうか?料理はできるし」

そういえば、すっかり竜司のことを忘れていた。見てみれば痛みは収まったのか、すでに立ち上がっていた。新司の言葉に妙に驚いていて、慌てた様子で新司を睨みつけた。だが新司はそれに笑顔を返し、竜司は視線で何か返している。

何をしているのだろう。双子ならではのテレパシーだろうか。

「…俺は別にいいけど」

しばらく兄弟で無言の会話をした後、竜司はボソリと言った。竜司にしては物わかりが良すぎる返答だ。こいつならバイト代とか言って金とか物とかせびりそうなものなのに。

「だって。どうする?」

と、新司は妙に嬉しそうに笑いかけてくるが、どうするも何も良い訳がない。幼なじみで両親も竜司の事を知ってるとはいえ、男を家にあげたなんてことになれば母に何を言われるか分かったものじゃない。

それにいくらずっと一緒だったとはいえ、家で2人きりなんて、私だってちょっと困る。別に深い意味はないが。

「ありがたいけど、遠慮しとくわ。無断で家に人入れると怒られるの」

私がそう言うと新司は何故か異様にがっかりし、竜司は新司を小突いて睨んでいた。いったい彼らは無言で何を話していたのだろう。

と、そこへずっと傍観していた静乃が、新司の肩に手を置き笑いかけた。

「じゃあ、こうしません?明後日から夏休みでしょう。わたくし避暑で別荘に行こうと思ってたのですけど、皆も一緒にいかがかしら」

なかなか魅力的な提案だった。

これなら皆一緒だから気まずくないし、ご飯も洗濯も心配ない。なにより楽しそうだ。

だが、問題は母が許してくれるかどうか。それにお金もあっただろうか。

うーん、と私が眉間に皺をよせると、新司がとどめを刺した。

「その別荘にはプールがあるらしいよ。市民プールじゃないから貸し切りのようなものだし。行かないかい?」

一瞬であらゆる問題が吹き飛んだ。

そうだ。いざとなったら母には無断で行けばいいし、お金は父のへそくりをちょっと失敬すればいい。隠し場所は全て把握している。

そんな些細な問題より、貸し切りのプールなんて滅多に無い機会を逃す方が問題だ。

「行く!」

私がおそらく今日一番の笑顔でそういうと、何故か竜司は小さくガッツポーズをし、静乃と新司は何故かにまにまと笑っていた。



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