1 from Prologue 婚約を破棄され、追放されし聖女。ある旅人と出会う。
「カノン、きみとの婚約を破棄する」
カノン・バーガンディ。
彼女は元・王都聖女派遣団の最下層に所属し、上級聖女を陰で支える補佐役であった。
カノンの持つ特殊な結界維持能力に目をつけた王子ゲオルク・シュトゥワルドが、「こいつと結婚しておけば国の安寧は安価に保てるし、出自が卑しいからおとなしく、文句も言わないだろう」と、半ば破れかぶれのように結んだ婚約であった。
しかしある時、以前から目をつけていた中聖女・セリーヌがどうやら結界を張れるらしく、さらには目を見張るほどの美しさに成長していたため、ゲオルク王子は一目惚れをしてしまった。
そのしわ寄せとして、カノンはお払い箱になってしまったというのだ。
王宮の応接間にて、カノンは婚約を破棄するという旨を、王子から言い渡された。彼女の胸を満たしたのは、悲しみや驚きよりも先に立つ、強い不安と懸念であった。
「あの……理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」
カノンはどうにか自我を保ちつつ、平静を装うように声を低くして言った。
「君の黒髪だよ」
「はい?黒髪……ですか?」
カノンは確かに黒髪と、漆黒の瞳の持ち主であった。ここウルカリア王国、ひいてはダルテニア大陸において黒髪を持つ者はほぼ存在しない。ゲオルク王子はカノンの能力に一定の評価を下してはいたものの、その容姿を気にする言動はこれまでにも何度となく見受けられた。
「改めて見るときみの髪と瞳の色は不気味だ」
「なんてこと……」
「部下や民の一部からも評判だぞ。『不吉な影』だと言ってな」
ゲオルク王子は高笑いした。なにがそれほど可笑しいのかとカノンは訝しんだ。いわば特有の個性を否定されること自体には特段何も思わないし、差し支えもない。これまでも考えないように過ごしてきたカノンの人生であった。
しかし、そのような浅はかな理由で今更この大事な婚姻の約束を反故にできるのかと、国民からの信頼はどうなってしまうのか考えなかったのだろうかと、カノンはその点を何よりも心配した。
「わたくしはいままで、ふさわしい立場であろうと精進して参りました。民からも蔑まれたことなど一度としてございません。そしてわたくしには、この王都の結界という守るべきものがあります。どうか、ご再考ねがいませんでしょうか」
カノンは胸に手を当て、瞼をきつく閉じ、ゲオルク王子へと懇願した。
「実はな、もうすでに別の候補が決まってしまったのだよ。その者はお前よりも煌びやかで美しい結界を張るのだ。それにきみの魔法はとても地味だしな。華やかさがないんだ。ということでカノン、きみは不要になってしまったのだよ」
ああ、これほどまでに上辺だけの華やかさを重んじる価値観なのかと、カノンは思い知らされた。今まで良かれと思って重ねてきたことが、すべて『地味』だの『華やかさがない』だのという軽薄な言葉で一蹴されてしまうことに、悲しみよりもむしろ呆れ果て、開いた口が塞がらない思いだった。
『愛想が尽きる』今の状況にこれほど過不足なく合致する言葉は、他に存在しないだろう。カノンはそう思い至り、即座に決断を下した。
「わかりました、王子様。わたくしはここから去ります。今まで可愛がってくださり、本当にありがとうございました」
カノンがそう言って顔を上げると、視界に飛び込んできたのはなんとも惨めで、醜悪な光景であった。人を嘲笑い、見下すような片頬の笑みに、カノンは己の愚かさを呪った。
なぜこのような人物のために今まで……いや、早い段階で本性を知ることができて良かったのだ。カノンは力ずくでそう思い直すことにした。
「『手切れ』にございます」
王宮官僚から手渡されたのは、革袋に入ったわずかな金貨であった。もっとも、無一文よりは幾分かましであるとカノンは受け止めた。他に与えられたのは木綿のフードと粗末な魔導師のローブ。聖女としての金冠とブローチは没収された。
カノンはフードを深く被り、馬車の切符を購入した。行き先は決めていない。どこか遠くへ、辺境の地へ赴けば良い、そう考え、できる限り遠方へと向かう馬車へと乗り込んだ。
夏の終わりを告げるかのような暖かい日差しと、そこに混ざり込む涼やかな風を受けながら、馬車は進む。カノンは揺られながら虚空を見つめ、これまでの王宮での出来事を振り返っていた。
なんて儚い夢だったのだろう。どうしてこうなってしまったのだろう。心の奥底にある小さな傷痕が、過去を思い返すたびに胸を刺すような棘に変わっていった。
カノンには身寄りがない。聖女として見出されたのは孤児院でのことだった。微かに漏れ出る光魔法と、魔物を寄せ付けない結界の適正に気づいた院長が王宮へ申し出たことが始まりであった。
それ以来、カノンの能力は他の追随を許さぬほどに開花した。しかしそれも、彼女の人知れぬ苦労と努力があったからこそである。夜な夜な勉強に励み、能力の向上に努めた研鑽の日々。血の滲むような魔法訓練の毎日があってこそ認められたのだ。
それが、ぽっと現れた派手な上級魔法に魅入られるとは。あの浅薄なゲオルク王子でなくとも、よほど目が眩むほどの美女だったのだろうか。
カノンの頬を涙が伝った。この日、幾度となく胸を払った非情な現実への感情が、いまさら湧き上がってくる。悔しいのだ。単純に勝負に負けた気がした。ただただ、心が疲弊しきっていたカノンであった。
「お嬢さん」
突然、低く太い声がカノンの左耳を支配した。カノンはハッとして横を向いた。そこには端正な顔立ちをした若き騎士が座っていた。
「いかがされましたか」
言葉少なに問いかけてきた騎士は、穏やかな眼差しをカノンに向けた。彫りの深い瞼の奥で光る鳶色の瞳に、己の姿が映っているのを見たカノンは、すぐさま所持していたハンカチで目尻を拭った。
「な、なんでもございません」
カノンはその真っ直ぐな瞳から目を逸らした。胸を踊らすような温かな眼差しに、耐え切れなくなってしまったのだ。
「それは失礼いたしました」
騎士はそう言うと、わずかな沈黙の後、「……ですが」と続け、再びカノンへと視線を向けた。
「淑女がこのような馬車の中で涙に暮れているのを目にして、そのまま放っておけるほど薄情な性質ではないことをお許しください」
若き騎士は先ほどよりも低い、カノンの胸の奥に響くような声で語りかけた。
「何があったのかは存じませんが、人生とは何が起こるか分からないものです。過ぎ去った日々を思い、それを嘆き苦しむことも必要な儀式ではありましょう。しかし、これから先に待ち受ける困難の方のほうがよほど多く、また、より高き山も立ち塞がるはずです。けれどもそれこそが、人生における醍醐味のひとつでもあります。生きてさえいれば、それだけで輝かしいものです。これからの貴女の人生に、美しき日々が訪れますように」
若き騎士は、祈りを捧げるような所作をした。きっと敬虔な信徒なのだろう。それにしても、カノンより少しくらい上の歳と思われる端正な騎士が紡いだ言葉に、彼女は胸の奥が熱くなるのを感じていた。
「ありがとうございます。おっしゃる通り、少々自暴自棄になりかけておりました。諫言耳の痛い思いです」
「差し出がましいことを申しました。申し訳ございません」
カノンのトーンを落とした返答に何かを感じ取ったのか、若き騎士はすぐに頭を下げた。思いのほか深刻な事情があるとうかがえたのか、恐縮した様子で何度も頭を下げ続ける。
「いえいえこちらこそ、このような小娘にありがたいお言葉をいただき、心より感謝しております。どうか貴方様にも、神のご加護がありますように」
若き騎士の左腕に巻かれた、痛々しい添木と包帯を目にしたカノンは、胸の前で両手を組み、祈りの姿勢をとって静かに短い詠唱を唱えた。
「ありがとうございます。はは、これをご覧になったのですね。実はこれが原因で、私は騎士団を退くことになったんです」
青年の語るところによれば、猛毒を持つ魔物との闘争中に起きた事故であったという。どのような処置を施そうと、光魔法を掛けようと左腕の痺れは治まらず、最終的に剣を置く決断をしたのだそうだ。
「そうだったのですか……それは、まことにおいたわしいことでございます」
「いえ、利き腕でなかっただけでも儲けたものであります」
気丈に振る舞う騎士の温かな笑顔に、ほんの少し心が救われた気がしたカノンは、フッと小さく息を吐いた。
「私はこちらで降ります。どうぞ良い旅を」
二人はその後もしばらく言葉を交わし、気づけばカノンの見知らぬ土地へと辿り着いていた。馬車はさらに先へと進む予定であったが、若き騎士にとっては途中の停車駅が目的地であったようだ。
「尊いお話をありがとうございました。あの……お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
カノンはそのまま乗り続ける予定であったが、一旦馬車を降り、去り行く騎士を見送りながら名を尋ねた。
「私はニコラ・ヴァランタインと申します。またいつの日か、どこかで」
ニコラは彫りの深い瞼をわずかに見開き、騎士団の敬礼にならい胸に拳を当て、浅く腰を折った。
「わたくしは流浪の魔導士・バーガンディと申します。ニコラ様に佳き日々が訪れますよう」
カノンは再び祈りの所作を捧げ、再び馬車へと乗り込んで騎士ニコラの背中を見送った。夕日に向かって歩むニコラをじっと見つめるカノンの目が細められたのは、単に夕陽の眩しさゆえだけではなかったはずだ。




