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1_プロローグ

 夕暮れ時の帝都には、蒸気の匂いがあった。


 石畳の路面を、最終の乗合自動車が軋みながら遠ざかっていく。


 赤煉瓦の街灯には薄く煤が積もり、硝子の火屋の中で、瓦斯灯の炎が頼りなく揺れていた。


 空は曇っている。


 月は見えない。


 けれど雲の向こうに、白い輪郭だけがぼんやりと滲んでいた。


 帝都の北外れ。


 表通りから一本奥へ入った細い坂道の途中に、御影人形工房はあった。


 御影灯真(みかげとうま)にとって、いちばん心が凪ぐのは、人形の指を組んでいるときだった。


 真鍮の関節に、髪の毛ほどの撥条ぜんまいを通す。指の腹で角度をたしかめ、ほんのわずか、爪先で押す。それだけで、木と金属でできた指は、生きた手のように、しなやかに丸まった。


 工房の棚には、組みかけの腕が、足が、まだ眼を入れていない頭が並んでいる。隅では古い火鉢が炭を抱き、その傍らで線香が一本、細い煙を立てていた。御影の工房では、機械の油と、線香の匂いが、いつも同じところに在る。


「灯真様。根を詰めすぎです」


 茶の香りが、ふわりと肩越しに差し出された。


「やぁ椿。あれ…今何時?」


 灯真はぐるりと周囲を確認するように首を回す。


「酉の刻を回った頃です」

「酉の刻…ってことは六時過ぎくらいか」


 椿は静かに「はい」と答える。

 緋色の振袖、白い陶器の頬。睫毛のひとすじまで人と見紛うのに、その胸は、息のかわりに、ことり、ことり、と微かな蒸気の鼓動を刻んでいる。


「朝から何も口にしておりません」

「もう少しで注文を受けた華族様の自律人形が完成しそうでね」

「いつもながら見事な出来ですね」

「そうだろう?」


 ふふん、といって灯真は鼻を高くする。


 今や帝都の大通りには、舶来の自律人形オートマタが溢れている。

 煙草を売り、新聞を読み上げ、辻でからくり芝居を演じる、よくできた機械仕掛けの人形。

 けれど御影の人形だけは、街の者にこう囁かれていた。


 ——あれは、ほんとうに、生きておる、と。


「華族様も喜ぶに違いないよ」

「灯真様は、本当に人形作りがお好きなのですね」

「まぁね。こんなに楽しいことはない」

「その人形にも、灯真様が付喪神の魂を入れるのですか?」


 椿の言葉に、灯真は顎に手をあて、「うーん」と唸りながら人形を眺める。


「そうだなぁ…そのくらい出来が良い自信はあるけど、僕が入れると他の人が触れなくなっちゃうからね。式神のお札を入れる場所は作ったから、必要ならおかかえの陰陽師さんにやって貰えばいいんじゃないかな」


「おう、まだやっとるのか、この粘り強い孫めが!」


 戸が、勢いよく開いた。


 御影巌みかげいわお。灯真の祖父である。六十を過ぎてなお肩幅は厚く、白い眉の下の眼は、悪戯小僧のように爛々としている。片手には徳利、もう片手には欠けた盃。江戸末期の生まれらしい、骨の太い声だった。


「人形ばかりいじりおって!たまには法具を磨かんか、法具を。御影の宝じゃぞ」


「磨いてますよ。使うかどうかは、別の話です」


「ふん、可愛げのない」巌はどかりと火鉢の前に腰を据え、盃を傾けた。それから、ぐるりと工房を見回して、しみじみと笑う。


「……しかしのう。儂が若い頃は、十のうち四つも扱えりゃ上等と言われたもんじゃ。儂は、その四つを扱えた。鼻が高かったわい」


「またその話ですか」


「だがな」巌の声が、ふと、おどけた色を帯びた。

「お前の親父——静雄が、二つしか扱えんとわかった時にゃ、儂は肝を冷やしたわい。御影の血もここまでか、とな」


 灯真は、答えなかった。


「ところがどうじゃ」巌は盃の縁で、灯真をびしりと指した。

「お前ときたら——十、全部じゃ!一つ残らず使いこなしおった。御影が始まって以来、誰一人成しえなんだことを、孫がさらりとやってのけた。化け物よ。誇らしい、化け物じゃ」


 二つしか法具を扱えぬ、引きこもりがちな父。


 けれど灯真は知っている。人形の骨格を、誰よりも美しく組み上げるのは、あの父だ。灯真にはじめて撥条の通し方を教えたのも、関節の遊びの加減を仕込んだのも、あの不器用で無口な父だった。法具など、扱えなくても父の手は、たしかに何かを、灯真に託している。


「……爺ちゃん」灯真は静かに言った。

「わかっとるわい」と祖父が少しだけ鬱陶しそうに口を曲げる。


「儂は静雄のことを出来損ないなどと思ったことはない。呪力は弱いがあいつは優しい。人の価値は法具を扱える数では決まらん。しかしお前が特別であることも変わらん。良いか!あの法具は——」


「わーかってるよ。我らが祖、安倍晴明が千手観音より賜った四十のありがたーい法具だろ」


「そうとも!晴明様はそれら法具を五つの分家に配分し、守護するように命じられた。そして御影一族は最も多い十の法具を預かっておるのじゃ。自慢ではない。お前にはその自覚を持って欲しいのじゃ——それなのにお前と来たら……」


 もう何千回と聞いた言葉だ。

 千手観音というのは流石に眉唾だと灯真は考えているが、出自不明の伝説的な宝具であることには違いない。

 それは、その法具を使える灯真だからこそわかることだ。


 ぶつぶつと小言を連ねる祖父に辟易しながらも


「でもこれが稼ぎ口なんだから仕方ないじゃない。それに俺は、力よりも人形を作ってる方が楽しいんだよ」


 巌は、ふっと笑いを納めた。皺の刻まれた眼が、めずらしく、優しくなる。


「……知っとるよ。お前は、ただ、生きたものが作りたいだけじゃ。——それが、御影の中で、いちばん厄介な才よ」

 火鉢の炭が、ぱちりと爆ぜた。


 夜が、始まる


 夕食を済ませた後、椿が燈火を落として回り、巌は盃を置いて舟を漕ぎはじめ、奥の部屋の灯も、いつしか消えた。工房に残ったのは、火鉢の赤い熾と、線香の細い煙と、組みかけの人形たちの、静かな気配だけ。


 灯真がもう一度、人形の指に向き直った、その時だった。


 カタカタ、と工房の奥に吊り下げられていた木札が揺れて、

 すぐに表戸が、叩かれた。


 御影を訪う者は職人筋か好事家がほとんどで、約束もなくこんな刻限に来る者などいない。しかも、うっすらとガラスから透けて見えるその叩き方は、許しを請う音ではない。開けて当然、という姿勢にも見えた。


 椿が戸口を見ながら灯真を呼ぶ。


「……お客様のようです」


「ああ」


 こんな時間に訪ねてくる者が客人であるかは微妙だが、灯真は腰を上げ、油の染みた前掛けで手を拭うと、卓の上の人形に、布をそっと掛けた。


「夜分に、失礼いたします——」


 戸の向こうから、低い声がした。


「内務省の使いの者にございます」


 火鉢の熾が、ひとつ、爆ぜた。

 線香の煙が、まっすぐに、闇の中を昇っていった。

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