第6章 聖なる空虚
●旅立ち
三月。
薄日が差す玄関に、スーツケースが置かれていた。
和也がスニーカーの紐を結び、立ち上がる。
朋美は三歩離れた位置から、その背中を見つめていた。
「……行くよ」
和也が振り返った。
朋美は無言で一歩だけ距離を詰め、右手を伸ばした。指先が和也のコートに触れる。
朋美はわずかに内側に折れ曲がっていた息子の襟を、きれいに引き出し、シワを伸ばした。
「……っ」
和也が短く息を吐き、いたたまれないように半歩後ずさった。彼はもう振り返ることなく、ドアノブを掴んで外へ出た。
重いドアが閉まる。ラッチが噛み合う音が響いた。
その瞬間、朋美は追いすがろうとして手を伸ばすが、虚空を掴んだまま膝から力が抜け、玄関の土間にへたり込んだ。
目から涙が溢れ落ち、冷たいタイルに染みを作った。
「ヤーボよ……私に、力をお与えください……」
朋美は震える両手を胸の前できつく組み、ただひたすらに祈りの言葉を繰り返し続けた。
●廃棄
その日の午後、朋美は真也の部屋で、最後の片付けを行っていた。
クローゼットの奥から、古いトランクを引き出す。書類の下から、旅行パンフレットが顔を出した。
『冬の北海道・三泊四日の旅』
表紙の隅には青いボールペンで「結婚記念日」の日付が書き込まれ、中のページには、丁寧に丸印がつけられている。
ポタリ、とパンフレットの表紙に涙が落ちた。
「真也さん……ごめんなさい」
朋美は濡れた顔を上げた。
震える両手でパンフレットを持ち、中央で半分に折った。さらに半分。もう一度半分。
愛しい記憶が詰まった紙片を、ただの硬く小さな長方形のブロックへと変えていく。
完全に形が失われたそれを、黒いゴミ袋の中に落とした。カサリ、と乾いた音がした。
●羊
翌朝。
松本家のダイニングには、朝日が差し込んでいた。
朋美は一人、テーブルの定位置に座っていた。
向かいの真也の椅子も、隣の和也の椅子も、もうない。昨日、朋美自身が粗大ゴミの集積所へ運び出した。
朋美は背筋を伸ばし、両手を胸の前で組んだ。右手の親指と左手の親指を重ねる。
目を閉じる。組んだ両手が小刻みに震え始めた。
朋美は大きく息を吸い込んだ。
「偉大なるヤーボよ」
微かに掠れた声が響いた。
「今日も私に……健やかな朝をお与えくださり、感謝いたします……」
真也の背中と、和也の横顔が浮かぶ。
閉じた目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
それでも朋美は、誰もいないダイニングで、口角だけを、ゆっくりと持ち上げた。
壁の時計だけが、変わらず正確に時を刻んでいた。
(了)




