第5章 壊れた正解
●遺体
地元駅の改札を抜け、冷たい夜風が頬を打ったところで、朋美はバッグから携帯電話を取り出し、電源を入れた。
未確認の通知アイコン。留守番電話。発信者は『真也』。
朋美は歩きながら、携帯を耳に当てた。
『……トモ、ミ…………』
ひしゃげた空気が漏れるようなノイズ。直後、ドサッという重い音が響き、唐突に電子音へと切り替わった。
「……! 真也さんっ!」
朋美は走り出した。アスファルトを蹴る靴音だけが響く。肺が破れそうに痛い。
「母さん、どうしたの!?」
和也の声を振り切って、玄関のドアを乱暴に開ける。
暗いリビング。テーブルの脇で、真也がうつ伏せに倒れていた。
「真也さん、しっかり!」
朋美は床に膝をつき、夫の肩を掴んで仰向けに返した。
真也の唇は青紫色に変色している。指先に伝わったのは、氷のような冷たさと、ただの物体と化した重さだった。
遅れて飛び込んできた和也が息を呑む。
朋美は、夫の手にあるスマホを、呆然と見つめていた。
●論理
真也の葬儀は、身内だけで行われた。
骨箱がリビングに安置された翌日、シェパード前田とシスター洋子が訪れた。
「ブラザーのことは、残念でした」
朋美の耳には前田の言葉はほとんど入らなかった。
「……私が電話に出ていれば、主人は死なずに済んだのです……」
前田はソファの布地の模様を、指でなぞりながら言った。
「シスター松本。あなたは何も間違っていません。彼はルールを破った。結果としての肉体の死です。魂を汚すことに比べれば……」
隣の洋子が、静かにため息をついた。
「追放された人の死をいつまでも嘆くのはヤーボへの不敬よ。あなたには、選ばれた息子さんを育てる使命があるじゃない」
朋美はゆっくりと顔を上げた。
前田の銀縁眼鏡の奥の瞳も、洋子の整った口元も、寸分の狂いもない表情を保っている。血の通っていない人形たち。
朋美は何も答えず、ただ自分の両膝をきつく抱え込んだ。
●筆跡
前田たちが帰った後。朋美は二階に上がり、真也の部屋のドアを開けた。
背後に和也が立っていた。手には黒いゴミ袋を持っている。
和也は無言のまま部屋に入り、本棚の教本を次々と抜き出し、ゴミ袋の中へ放り込み始めた。教本を掴む和也の手は、小刻みに震えていた。
「和也?」
和也の視線が、朋美の顔から逃げるように床へ落ちる。
「……行かない」
掠れた声だった。目はわずかに潤んでいた。
「養成学校には、行かない……あの人たちのようには、なりたくない」
和也は震える手で真也のデスクの引き出しを開け、一冊の古いノートを掴み出すと、朋美の足元へ放った。
床に落ちたノートが開く。そこに並んでいたのは、教義の書き写しなどではなかった。
『朋美が笑った』
『今日は映画の話をした』
『あの頃みたいに』
教団に染まる前の、他愛のない言葉だけが、乱れた筆跡で隙間なく書き連ねられている。
「父さん……これ、全部……」
和也は言い切れず、息を詰まらせた。うつむいたまま、朋美を避けるようにして部屋の出口へ向かう。
「僕、東京の大学に行きます。……許してください」
和也の足音が階段を下りていく。
残された朋美は、床に落ちたノートを見下ろしていた。
朋美は床に膝をつき、ノートに触れようと手を伸ばしかけ――空中でピタリと止め、そのままパタン、と裏返して文字を隠した。
ゆっくりと姿勢を正し、両手を胸の前で組む。右手の親指と左手の親指の重なり。肘の角度。すべてを元の、あるべき形に戻す。
目を閉じ、静かに唇を動かす。
声は出なかった。
それでも朋美は、崩れ落ちそうになる心を縛り付けるように、何度も、正解の形をなぞるように口を動かし続けた。




