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シイカは草履を置き、座った。
その横に犬が座り、窓のところにとまっていたふくろうもやってきた。
「黙ってます。私は黙ってますよ」
真結が言おうとすると、箱から大きなパンをとり出しながら、久光が言った。
「気にするな、シイカ。何があったのか聞きたい。その前に、練成で何か作れるかやってみてくれないか」
朗読者。それか、それに近い何者か。久光の言う通りだと、真結も感じたのだった。
「皿がほしいな、シイカ君」
この感じは、何なんだ。真結は頷くシイカを見ながら、不思議に思った。
前に会った。その時はこんな感じはしなかった。久光も、何も感じなかったはずなのだから、それは間違いないだろう。
シイカが息を止めた。おそらく、無意識だろう。木の床に向けられた手の平に、シイカは集中している。
形が定まり、音を立てて、リムの金属でできた板が床に落下した。慣れていないが、練成に変わりはない。まぎれもなく、シイカがやったのだ。
「まだこんな感じで、全然うまくできません」
恥ずかしそうに笑いながら、シイカは久光にそう言った。
「やっぱり練成できるんだ、凄いね、シイカ君。でもこれじゃあ、まな板だよ」
「本当に朗読者になったんだな、シイカ。どうしてだ。それと、久光から聞いているが、お前はどこへ行ってたんだ」
「信じてもらえるかわかりませんが、正直に言います。僕は新世界へ行ってきました」
「久光がお前を包んだリムを解放したら、行けたというのか?」
「多分、そうです」
「じゃあ、皆、新世界へ行けることになるんじゃないのか。簡単だろう」
シイカは返事に困って、久光の方を見た。
「久光、どうなんだ。そんなこと有り得るのか?」
「ないですよ。だから、私はびっくりしたんですよ。子供の頃、かくれんぼとかで、やってましたもん。
まだ見つかってないとか言って、召喚したリムとか、練成で作った壁の中に隠れるんですよ。鬼ごっことかでも最後の手段として使ったりもしました」
「場所はどこだ」
「海野市という街です。日本です。極東の島国です」
「知ってる。なぜ、お前はそこへ行ったんだ」
「ミラモの記憶している人が、そこに住んでいたんです」
「これ、シイカ君の分。はい」
「お前ら、久光の散歩に付き合ってやってくれ」
真結は二匹の方を向いて、静かにそう言った。
部屋には真結とシイカだけになった。
シイカが嘘をついているようには思えず、全て本当のことだろうと仮定し、真結は話を聞き続けた。
ミラモ・アキシアルの記憶していた人物が特別であること。そして、シイカがミラモ・アキシアルとは血のつながりがなく、南風島出身であることなどを聞いた。
そこで久光が戻ってきた。真結は、まだ食べられるか、先にシイカに聞いた。久光が作っていったパンは、全部シイカが食べていた。
「シイカ君の前で、そんなに堂々と煙草なんか吸わないでくださいよ、真結様」
買ってきた甘いものを皿に並べながら、久光が言う。
「そうだな」
真結は窓に足をかけ、煙を吐いた。
こいつの人生はこれから狂い始める。どうせ、普通の民としては生きていけないだろう。聞いたことを思い返しながら、真結はそんなことを考えた。
いきなりのことで驚きはしたが、もう、真結はシイカを完全に朗読者として認めていた。
どうして、シイカにだけそんなことが起きたのかはわからないが、他の者からしたらシイカはもう、ただの朗読者だ。意味不明ではあるが、記憶だってちゃんとある。
太陽の下で延々と続く、無味無臭の日々。
アウルならきっとこう言う。こうなる運命だったのだ、と。初めから決まっていたことなのだ、と。
そういう考えに、多少は毒されている自覚はある。
シイカが朗読者になることがずっと昔から決まっていたら、と考える。それなら、シイカはまともな人生を歩めはしないことになる。朗読者の人生は、どうせろくなものじゃない。
それを受け入れるということは、絶望するという意味ではない。それは、アウルと同じ考えであった。
でも、俺は信じて待つなんてことはしない。
お前は、この根島国が嫌いなんだよな、シイカ。尾花のやり方を認めたくないよな。
そう、真結は尋ねた。まだわからない、と先ほどシイカは答えた。
嫌なら抗う。気に食わないなら壊す。それをできる力がある。そして、それをできる覚悟があるなら、俺たちは多少は自由になれる。できなければ隠れて、逃げて、追いかけられ、削ぎ落とされて、えぐり取られて、俺たちは丸ごとなくなってしまう。
別にあんたを悪く言っているわけじゃないんだ。俺には子供なんていないし、それを失った痛みもわからないからな。
ただ、そうやって生きるのは嫌なんだ。きっと、あんたも俺と同じ立場なら、俺と同じようなことをしてたと思うぞ。
答えが返ってこないことは知っている。だが、こうやってアウルに語りかけることが無意味だとは思わない。
アウルに言うと同時に、自分にも言っているのだ。
自分の考えていることが全て正しいなどとは、もちろん考えていない。いや、だからこそ、こうして語りかけているのか。それなら、俺もあんたも大差はないな。
どこかで信じて、期待しているんだ。
あんたは娘の帰りを。
俺は俺自身がここに存在する価値を。
姓は向山。
由来は、大陸北部から見える対岸の山ばかりの島。
分家の証である。
誇りになるものなんて俺には何もない。
今だって何の力も権力もないから、この根島国に頼っている。
子供がどこかで生きてる。きっと、帰ってくるって信じてるんだろ。
それなら、あきらめたふりなんかするな。
真結は知っていた。
アウルは半分あきらめているくせに、絶対に逃げない。
もう忘れてしまった方が楽かもしれない、などと考えたりもしているし、逆に、娘は今も幸せに暮らしていると想像し、自分をなぐさめたりもしているのだ。
要は、あきらめたふりなのだ。少しだけ自分を騙している。
それで毎日を乗り切ってきた。アウルは信じていたい。信じ続けるために、そうやって僅かな嘘を含ませ、自分を保っていた。
それがアウルのやり方だった。そして、真結はそれが嫌いだった。
自分と似ているようで違う。腹が立つのである。もどかしくもある。
ふくろうの顔が目の前にあった。
赤い燃えている部分が、もう指先までせまっていた。それをくちばしでつかみ、散らした。
真結は燃えさしを指の間にはさみ、その手でふくろうの頭を軽く撫でた。
ふくろうはわかっているというふうに、頭を揺らした。
久光は買ってきたものをシイカに説明している。




