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部屋のカレンダーも居間のカレンダーも、日付は五月十一日だった。
至るところに埃がたまっていた。誰かが勝手に家の中へ入ったような感じはまったくない。
シイカの着物は塩で固くなっている。髪も同じような感じだ。
とても暑い。今日が七月十五日だというなら、真夏である。
リムをどうしたらいいかわからなかった。空を飛び、北風島へ戻ることは無理だと思った。距離は特に問題なかった。
人に見つかる。つまりそれは、自分が朗読者と同じようにリムを召喚したりできると教えてしまうということだった。
新世界へ行き、戻ってきたらこうなっていた、などと言っても、誰がそれを信じるだろうか。
自分が海に落ちた場所は、北風島と西風島と竜廓島の、ちょうど真ん中辺りだったらしい。
最初、シイカは泳いで北風島へ帰ろうとした。だがうねりがひどく、息をするのも難しかった。
シイカは、魚の形をしたリムを召喚することができるか考え、実行した。そしてそれができた。
シイカ自身も、そのリムがどんな姿をしていたのか、はっきり見ることはできなかったが、確かにその背につかまり、リムは海の中を進み、北風島までたどり着いたのだった。
リムを解放し、少し泳ぎ、砂浜を歩いていると、自分のずぶ濡れの姿に気付いた大人が声を掛けてきたが、シイカは海に落ちたとだけ答え、走った。
できるだけ人目につかないようにしたが、それでも自分を見ている人は何人もいた。口々に何か言っていた。
顔見知りの店の人間がいたので、声を掛けてみると、とても驚いていた。
聞いてみると、自分は二ヶ月ほど前に突然いなくなったと言われた。昨日ではなく、二ヶ月前である。
不自然に浮き出してくると思った汗は、ただの汗で、自分だけが暑いのではなく、皆が暑いのであった。シイカは竜廓島に行っていたと答え、また家を目指して走った。気付くと、また周りの人間が自分を見ていたのである。
走りながら、浅い息づかいの中で、本当に二ヶ月間、自分は姿を消していたらしいと思った。
カレンダーは一日を一枚として、紐で束ねていた。それはそのままに、シイカは床下を開ける。リムの金属で作られた箱があった。
自分で開くことができるだろうか。箱は土にほぼ埋まっていて、上部だけが見えている。表面を指で触ると、土がうっすらとついてきた。
リムの解放と同じような感覚で、もう一度箱に触れてみる。何も起こらない。どんなふうになるのかは、何度か見ているので知っていた。
煙のように上部が消える。リムを召喚することができたのだから、これもできるだろう。
目のところに垂れ下がり、やたらとまつ毛に当たる毛の束を、シイカは根元からかき上げる。くせをつけるように、強く頭皮に押しつけると、元には戻らなくなった。
紙とあの板さえ取り出せればいいんだ。手が入る大きさの穴で十分だ。
シイカは指をしっかりと広げた手の平を、もう一度箱に触れさせる。
回転するのではないだろうか。シイカはそう思った。いや、ミラモはもっとこう、練るような感じで家の鍵を作っていた。
だがシイカにとっては、回転させるということが、まさにという感覚だった。
リムの金属に手を当てたまま、それをぐるりと回すようなことを想像する。さらに、引き抜くという感覚を足す。
流れになり、そよいだ。丸く、手の大きさとほぼ同じぐらいの穴。シイカは思わず、あっ、という声を上げた。
やっぱり練成もできた。シイカは自身の手の平を見るが、特に変わりはない。
ミラモやトルストさんも、見ためは何も変わらない、ただの人だったじゃないか。見たって、何かがわかるわけはないんだ。
召喚も練成も現実だ。ちゃんとできた。まだ慣れていないだけだ。
手を穴に入れ、紙を重ね、少し丸めながら取り出す。
金属の板もだ。それらを懐へしまった。しまってから、自分が、リムの背に乗って竜廓島へ行こうとしていることにシイカは気が付いた。しかも、今すぐに行こうと考えていた。
国の人間に見つかるに決まっているじゃないか。まだ、誰にも知られるべきじゃない。大人しく夕方の船で海を渡ろう。その前に風呂屋へ行き、それから役所へも行くんだ。先月受け取るはずのお金は、どうなっただろう。
シイカはたたんで懐にしまったものを、全て箱の中へ戻した。それから少し考え、今度は逆に回転させ、押し出すような感じでやってみた。すると、穴が別のリムの金属によって塞がった。盛り上がり、不恰好ではあるが、ちゃんとふたの役目は果たしている。
よく見ると、自分のひじのところが赤くなっていた。切れてはいない。
それは家に入る時にできたものだった。
家の中から、いきなり新世界へ行き、帰ってきたため、家の鍵を持っていなかったのであった。そのため、シイカは手紙受け用に開けられている穴に腕を突っ込んで、無理やり内側から鍵を開けたのであった。
多分、久光さんは普通に家を出て、ミラモと同じように練成で鍵を作ったと思う。
シイカは、まず久光に無事に帰ってきたと伝えようとしていた。いきなり、目の前で自分が消えてしまったのだ。きっと驚いたに違いない。そして、そのせいで真結さんにまで何か迷惑をかけてしまっているだろう。
シイカは、わめきながら真結の肩をつかみ、前後にゆさぶっている久光を想像した。多分、そんな感じだろう。
シイカは床の板を元に戻し、二階へ家の鍵を取りに向かった。昼すぎの平日である。だが、シイカは学校へ行こうとは考えなかった。ただ、準備を整えたら竜廓島へ行こうとだけ考えていた。
あの人なら、いきなり怒り出すだろうか。そもそも、心配などしていないだろうか。それならその方がいい。
騒ぎになっていたから、もしかすると壬海まで伝わったりしたかもしれない。でも、手紙の類は来ていない。
僕は自分が人との関わり合いから逃げていると自分で認めてしまった。
失って悲しむのが怖かった。違ったらどうしようと思い、怖かった。心の奥の奥では、人を遠ざけ、自分を守ろうとしていた。
僕は、僕がそれで壊れてしまうのが怖かった。
ミラモは自分を家族だと言ってくれた。
自分もミラモを兄だと思ってきた。
その兄をもっと大事に想いたかった。できることなんて何もないけど、そういう気持ちで接したかった。
多分、ミラモが僕にしてくれたような感じだ。たとえ違ったとしても、僕は勝手にそう思っていたい。
そして、やっぱりミラモは早く死にすぎたと思う。
後悔ばかりしている。悲しいというだけじゃない。本当は久光さんの言う通り、怒りだってある。塑山に対しても、この根島国に対しても。でも、一番怒りをぶつけたいのは、僕自身にだ。
朗読者とは、そういうものなんだと決めつけていた。抗えない。ただ僕は見ていることしかできないものなのだと、勝手に思っていた。
ミラモに、そんなふうに生きたいのか、なんて一度も訊いたことはなかった。
僕は、ミラモは朗読者なんだから、そんなふうにしか生きられないと決めつけていたんだ。
ミラモはどんな風に生きたかっただろうか。
シイカは、自分がトルストに言ったことを思い出した。トルストさんの人生。同じように、それは朗読者としてのトルストさんの人生、と無意識に考えていた。
でも、それはそれで良かったのかもしれない。トルストさんは立派な大人だ。僕のことで心配されたくはない。余計なことは言わなかった。それで良かったんだ。
また強がっていないか。いや、むしろこれからは、そうやって生きていくんだ。
ミラモもこんなことを考えていただろうか。そんなことを考えると、なぜかいつも釣りをしたり、だらだらと家の中で転がってすごしているミラモばかりが思い浮かぶ。
こっちが真剣な時に限って、ミラモはいつもふざけてはぐらかしていた。
もし、これからミラモの過去について知ることがあれば、きっとそれのほとんどが悲しいことなのだと思う。ミラモに表と裏なんてなかった。いつも笑っていた。自分の知っている限りは。
笑って生きようとしていたのかもしれない。やっぱり見えるのは、楽しそうなミラモばかりだ。悲しいことにも気付かないぐらい、ミラモは馬鹿だっただろうか。悲しいことも全部笑い飛ばせるほど、強かっただろうか。
新世界には、長居するつもりだった。大事な時に限って、僕こそ駄目なやつだ。
朗読者は新世界の人間の記憶を持つ。それは、人一人の人生を、背負って生きるという意味じゃないだろうか。
シイカは、練成も召喚も力だと思っていた。ただ、頭の中に何かはある。靄がかかり、それが何であるのかまではわからない。
新世界で生きている人間の記憶を持つこともなく、朗読者の力だけを手にしてしまった。シイカは、そう感じていた。
少し、その背中の軽さに、不安を覚える。
来年の一月、シイカは十五になる。




