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同じ感覚だ。
こうやって新世界へ来たんだ、僕は。
一広高士。あなたはおかしくなってしまったのか。どうして、あんなことをしたんだ。
一広自身も、どうして自分が旧世界のことを知っているのか、わかっていなかった。そして、所々、記憶がおかしくなっていた。多分、新世界と旧世界の区別がつかなくなっていたせいだと思う。
一広は、竜廓島の街の様子などについても知っていた。
さらに、南部では羅亜南に朗読者を売り渡す親がいることについて話すこともできた。
一広は、時々羅亜南のことをオーストラリア大陸と呼んでいた。
地理的に見れば、根島国から南にあるわけだが、新世界と旧世界は形も大きさも大陸の位置もあまり似てはいない。
言い間違いに、一広は気付いていなかった。最後まで。
死にたかったのかな。なんで、死んだんだろう。
どうやってあの車を持ち上げたんだろう。朗読者みたいに。なんて言ってたっけ。なんだっけ。
ミラモの知ってる世界って、あれなのかな。
少なくとも僕の見た場所は淋しいところだったよ。
それにあの人はミラモじゃなかった。
なんか、僕は勘違いしてたみたいだ。むきになって馬鹿みたいだった。
その上、死にかけてさ。
あのせまってくる車は、本当に怖かったんだよ。
一広さんは帰りなさいって言ってたけど、僕はどうやって帰るのかなんて考えてなかったんだ。
そう。あの人は別に僕まで巻き込もうとしてたわけじゃないんだ。
だから、怒る必要なんてないんだ。
僕は、やっぱり大事だって思った。
せっかくミラモに助けてもらったのにって、思った。
そういえば、ミラモ。
あの朗読した本の最後、嘘だったじゃないか。
シイカは思い出した。
施設で眠るように死ぬ、なんて。
ミラモ・アキシアルの見ている景色。一広はそう言っていた。
僕が来るって知ってたんだ。じゃあ、ミラモも僕が新世界へ行くことを知ってたんじゃないのか?
ミラモ、絶対知ってたよね。
不思議な感覚に包まれている。よく知っている、馴染みのある場所へ来たような感じだ。
ミラモに対して怒っている自分。
風に、体が流されていく。足がついていない。何か、つかまるものはないか。
闇ではなかった。視界は、ずっと白っぽい。少し、赤いような気もするが、それ以外は何も見えない。
そう。そうだった。
一広さんはミラモの見ている景色って言ってたんだ。一緒に来ると思っていたみたいだった。多分、ミラモの記憶なんだ。お互い、相手の覚えていることを知っていた。でも、一広さんは途中から区別がつかなくなっていた。つじつまが合う。
それなら、ミラモの子供の時のこととかも、一広さんは知っていたんだろう。
親は死んだ。ミラモはそればっかりで、昔のことは全然話さなかった。
手の平から、何かが剥がれたような気がする。
別に大事なものでもないし、いいや。
シイカの右手の中指に当たった。
砂。
ただの一粒だけだ。
体が軽い。だから、風に流されているのだろう。こっちで合っているのだろうか。
散々文句ばかり言ったけど、ミラモは僕を助けてくれたね。ありがとう。
あの時のこと。一度もお礼を言えなかったな。でも、もうミラモは死んだから。
「ぶっ殺してやりたいね」
今は、あんまりそうは思わないんだよ、久光さん。僕は久光さんの方が変だと思うけど、僕の方がおかしいのかな。
あの人なら、絶対そうだよって言うだろうな。
ミラモを殺したのは爆弾だったんだよ。根島国はもう塑山側じゃなくなったし、それをわかっていたんだよ、塑山は。だから、敵側になるミラモを殺したかったんだと思う。
だからもう、何に怒ったらいいのか、僕にはよくわからないんだよ。爆弾を作った人。そういう作戦を考えた人。気付かなかった人。
僕は、そしたら全部壊したくなっちゃうんだ。そんなことできもしないけど。いや、たとえできたとしてもやらないよ、そんなこと。
元々はミラモの過去を知りたいと思ったんだっけ。いつのまにか、順番が逆になっていたな。僕は今、旧世界へ帰っているところなのだろうか。来た時は、こんなに色々考えてなかったと思うな。考える間もなかったはずだ。見える景色はこんな感じだったけど、僕は一広さんのいる炭岡町を探していた。
なんとなく、旧世界へ近づいている気はするのだが、シイカの視界は白んだままで、そもそも見ているのかどうかも危うい。
旧世界へ戻れたら、これからどうしようか。一日ぐらい学校を休んだって良いと思う。頭の整理をしよう。
その後はどうしよう。
もう、トルストさんもいないし、僕は一人でやっていかなくちゃならないんだよな。
視界は、白んだまま。それ以外の感覚はほぼない。唯一、ただそこに自分の体はあるのだとわかるだけだ。
悪くない。むしろ、心地良いとさえ思える。
眠ることができるのだとしたら、僕はこのまま眠ってしまいたい。そして、そのまま死んでしまうなら、もうそれでいい。それなら、怖くない。それが一番楽だ。
僕がいなくなる。僕がなくなる。
多分、一回経験したからだ。怖いのは失くすまで。でも、そもそも、そんなにたくさんはないんだ。
狭間の終わりが近づいてくる。
シイカは、もう全部ゆだねてしまっている。虚無感はない。後悔もない。
終わり。
考えることを止めた。
だが、世界は空に変わった。
そこは、旧世界。
空と反対の方向へ、シイカの体は引き寄せられる。下という方向が生じる。
ずるり、と落ちた。体は、虚空から完全に切り離されてしまっている。
全身を風が這う。その冷たさにシイカは気付いた。目を開ける。巨大な黒い壁がせまってくる。
飛んでいる。シイカはそう思った。風を受けた四肢が開く。体が回転した。白い光になつかしさのようなものを感じる。
僕は生きている。一定の間隔をあけて光る。まぎれもない太陽である。
わざわざ疑うまでもない。シイカは状況を理解した。強く、目を開けた。すると、黒いと思っていた壁が、青い巨大な海面であるとわかった。まだ、頭がぼんやりとしている。それでもほぼ無意識に、顔を腕で守った。
しびれるような衝撃と冷たさに、一瞬で覚醒した。シイカの足に、何かがぶつかった。それが下からシイカの体を持ち上げた。
シイカが知らずとも、既に覚醒していたもの。
海面から水の飛沫を上げたのは、リムだった。
一瞬だけ水の中へ落ち込んだシイカの体が、今度は上へ放り出された。体を丸めたまま、また水の中へ落ちた。自分が何かしたという感覚と共に。今度は全身に水がまとわりついてきた。きつく、目を閉じている。
冷たい。シイカは手も足も動かし、目を閉じたままで泳いだ。上に軽い。おそらくは水面であろう、その方向を目指す。
光と風。
シイカの手の平が海の表面を叩いた。口で空気を吸う。水も入ってくる。苦しくて限界だった。
波。足元をすくうように体が持っていかれる。
戻ってきたのか。ここは、海だろう。シイカの呼吸はまだ荒く、考えるよりも息を吸うことに意識が向かう。
底に、足がついたと思った。前に倒れ、手をついた。足元を見る。色で、それがリムだとわかった。胴体。翼が海面を激しく叩いている。目を細めながらも、シイカは見ていた。自分を乗せたリムが、溺れているのだ。沈んでいく。まだ、リムは翼を動かしているようだが、海の中で動いているだけだ。
また、波がシイカを押した。リムの背中から、足が離れる。一瞬だけ頭まで水に浸るが、シイカは水をかいて顔を出した。
体に、よく知らない感覚がある。
服が重く、体にまとわりついてくる。水とからまって、動きづらい。
でも、これじゃない。
シイカはその感覚が、内から湧き出るものなのだと気付いた。
さっきのリムは翼竜だった。他の誰でもない。今だって、どこかへ消えていくのがわかるんだ。僕の、僕が呼んだリム。
それが水の底に沈んでいくのが、わかってしまう。
知らないものを触るような感覚。触れ続けている。
シイカはその手を放した。触れていたものが、不確かになったように思えた。
強くそれらを感じているため、シイカは目を閉じていた。海水で赤くなった目。ぬるい涙があふれている。
消えていくわけじゃない。ただ、とらえどころがなくなるだけ。常にそこに在る。シイカはそれをつかもうとした。
壁。それに、爪を立てるような感覚。
海面すれすれの虚空から実存と化す、翼竜。
朗読者シイカ・アキシアルによる、翼竜の召喚である。
指の関節を伸ばし、壁にその腹をそわせる。世界が穏やかになった。
翼竜が、強く羽ばたいた。
その翼竜には四本の足があった。頭を下げてくる。シイカはその首にしがみつく。翼竜は少し勢いをつけ、器用にシイカを背に乗せた。
シイカは、抱きしめたかった。よくわからないなつかしさが、シイカを包み込んでくる。
不確かなままで、なぜか届かない。また、ミラモの死んだ世界に戻ってきてしまった。
抱きしめたかった。
心の中で、悲しくないところが、どこにもない。ここに自分がいるということが悲しい。
僕はもう、死んでよかった。
どちらの島からも少し遠い沖。シイカは天に向かって、哭いた。
そして、いない人間の名を呼んだ。
珍しく、よく晴れた、風のない海の上だった。
四つ足の翼竜は羽ばたき続ける。




