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真結は草履を履くようになっていた。そして、十八歳になっていた。
今日は七月三日。
ちょうど夏のど真ん中らしいが、先週、そして先々週辺りよりも涼しく感じることが多くなっている。
おそらく、一度に降る雨量が増えたからだろう。
声をかき消すぐらい、外はうるさくなるのだ。それでも、道が全て水に浸ってしまうことはなく、溜まっているところを避けながら歩くことは可能であった。また、地面の水を草履が吸い、足の裏が多少濡れても気にならなくなっている。
二日前の誕生日に、長くなっていた髪を切った。それは久光にやってもらった。
ここへ来たのが三月だから、もう四ヶ月もいることになる。
ここへ来て、自分は何をした?
笑ってしまうほどだ。ただ、居ただけだ。そういう想いが日に日に増している。俺は、政治家や役人には向いていない。
真結は、自分よりも明らかに気が短く、何をしてもうるさい久光が、何もあせったように見えず、むしろ日々を楽しんでいるかのように見えるのが、本当に不思議に思えて仕方なかった。
久光は屋根に登ってそのまま寝ていたり、時々ふらっと街へ出ていき、甘いものを買い求めたり、洗濯をしたりと、この島の民のように、ただ生活しているのだった。
王宮にいた頃の感覚に、ひどく似ていた。どこかへ行きたい。昔はそれだけだった。国がどうとか、王になるだとか、考えていなかった。
自分のそばに久光が来たのは、父が王になる直前で、それまではずっと一人だった。一年ほどで、久光は壬海へ行くことになった。
あの時からもう、久光は自分のことを雇い主と言い、俺は一度国を出て、根島国へ行き、再びここへ戻ってくるという気持ちをかためていた。
何かしたい。
しかし、あの頃とは違う。最後には、俺は鉈欧へ帰るのだ。だから、何でもいいというわけではない。
正門近くの大きな通り。さすがに歩き慣れてしまっている。ただ、尾花に呼ばれたのは、およそ一ヶ月ぶりだった。
久光一人を連れてきた。犬、ふくろうは部屋に置いてきた。この塀の内側なら、安全。そういう想いがいつのまにか生まれていた。
なぜ、心を許せるのか。確かにこの竜廓島は治安が良い。塀の内側だけでなく、街も含めてである。鉈欧も同じ島国だった。
向こうは同じ島の中に、敵が既に入り込んでいる。それが大きいと思う。対して、この根島国は完全に大陸と分断され、特にこの竜廓島は、敵が攻め入ってくるということがまず起きない。
一の丸へ入るのは、真結一人である。それについて、久光ももう文句は言わない。それどころか、正門から外へ出ていき、散歩までするようになっていた。
二人は六月頃、身分証を渡されていた。
手の平におさまる黒い金属の板で、自分の名が小さく書かれている。そして、翼竜の彫りものが一面を覆っている。板は鉄であり、磁石にくっつく。
エレベーターで上の階へと上がる。尾花の秘書が先に降り、操作して、箱を再び一階へと降ろした。
執務室の扉を開けると、薄着になった尾花が立っていた。ワイシャツ、そして、ネクタイ。袖を無造作にまくり上げていた。
秘書が冷えた茶を運んできて、出ていく。
尾花はいつも疲れている。いや、疲れた表情をしている。時々、考える。この男はいつもこの部屋にいるのか。生活のための部屋が、自分と久光が暮らしている建物と反対の塀の方にあるのは知っている。
最も警備の厳しい東側だ。
自分も、遠くからしか見たことがないが、大きな建物がいくつも立っている。
あまり、帰ってはいないのだろう。
よく見ると、尾花の茶には氷が入っていない。
わかっているのか、気にする様子もなく、尾花は茶を口に運んだ。
「やっぱり、うまくはいかないみたいだ、真結君」
尾花は、呼ぶ必要がない時は、自分をここへは呼ばない。
「鉈欧の中で、塑山にもう、譲り渡してしまおうという輩が出てきている」
「そんなのは、昔からずっといましたよ」
「自分たちは、壬海へ移り住んで。それが加わったんだよ」
驚きというより、もう、落胆だった。
何かを通り越したのか、真結は笑いながら、口から大きく息を吐いた。二度、横に首を振った。
「何か対策を立てないといけない状態だ。真結君。壬海はそれを拒んでいない。むしろ、後押ししている感じだ」
「前に言っていたことが、わりと深刻になったということですね、首相」
「そうだな」
「確かに塑山側の人間なら、そうやって扇動するか」
「物流はいい。だが、もう規制をかける段階だ。今はまだ、一般の民は壬海へ行くことは難しいが、財のある者はそれができる」
「出ていきたいやつは、出ていけばいい。俺はそう思います」
「しかしな、壬海でその手引きをしているのも、壬海の塑山派なんだ。壬海の方では、もうトルストが中心となって、対策はしているが、鉈欧側にも何か策をこうじるべきだと思ってね」
「俺に、何かできることはありますか」
「君にできることはあまりない。はっきりと言うと、そうだろう」
「それも、今さらですよ」
「考えがあるんだが、まあ、思いつき程度のものと思ってくれていいさ」
「言ってください。聞きます」
「もう、鉈欧の現国王に退いてもらって、君が王位につくんだ。それができたら、根島国は単独で兵を鉈欧に送ることができるだろう。一件落着だ。どうかな?」
何の表情の変化も見せず、尾花は言った。
「それは、本当に最後の手段では」
「何か理由をつけて、三千人ほど兵を壬海北部に送る。それをどうやるかは、まだちょっと考えていないがね。それで王宮を制圧して、その兵士たちを、そのまま鉈欧に置くんだ」
「そんな簡単な話では」
それは何度か見た尾花の表情であった。
「まだまだ、私も若いみたいだね。若者に止められるぐらいの勢いがあるということだ」
本気で言っているのか。真結はただそう思い、尾花を見ていた。
「いつかはそのつもりでしたから。今、それをやるつもりなら、俺は俺なりのやり方でやりますよ」
真結の沈黙は短かった。
細かい部分は置いて考えれば、やることは一つだ。半端なことをやるつもりはない。そんなつもりでやれば、遅かれ早かれ、失敗だ。
そしてこのまま、ただ王宮から出て、根島国に捕まった向山真結のままで死んだら。
俺には、何も残らない。何もできないで死ぬのだから、当然だ。王宮で、部屋の中で一人でずっと遊んでいたのと同じだ。ここへ来たことにも、何の意味もなくなる。
急に、体が重くなったように感じた。
「君も無茶なことをした。一人でこんなところまで来て、捕虜か何かのふりをしている。それなりにもう危ない橋は渡ってきたんだ。だから、そう気負うことはないぞ、若者よ」
冗談を言っているわけではない。ただ、尾花はおどけて見せているだけだ。
いずれ、殺る。方法は、一つしか考えていなかった。
「王宮を攻める時は、根島国の兵を使うべきでしょうか。それとも、いわゆる暗殺か」
真結は、あえて訊いた。
「王宮に攻め入るのは無理だろう。三千の兵での制圧は、王が死んだ後だ。それより、こちらから鉈欧へ軍を渡す時、追月地区から攻撃を受けると思う。どんなに北側から回り込んでも、陸に近づく時は、南から側面を突かれることになるだろう」
「今の、商用の船はどうなっているのですか」
「壬海がそれなりのものを塑山に渡し、見逃してもらっているという感じかな。向こうも、常に海の上にいるわけではないだろうし」
結局のところ、グルー大陸は塑山を中心に動いている。
「鉈欧へ出る兵は三千と言いましたが、それは首相の判断でできるものなのですか」
「ああ。これが正しい独裁ってやつさ。根島国が大きくなったら、こうもいかないだろうが、この六つの島だけなら、まとまっていられる。議会の連中は少しばかり自分の暮らしが良くなれば文句は言わない。塑山との貿易はなくなったが、壬海、星老がある。国がそれらを仕切っていられる間は、このままでやれる」
朗読者の数が多い。壬海はそれを必要とし、実際、トルストたちは壬海へ行き、動いている。向こうとしては、それらの利が大きいはずだ。
羅亜南への流出。南部の治安維持。まあ、問題のない国などあるわけがないのか。
「君は、自分の父親をちゃんと殺せるのかな、真結君」
「私よりも適任がいますので、任せるつもりでいます。俺の目的は、あの国を取り戻すことですから」
「そうか。こだわりがないのなら、それはそれで良いことなのかもしれないな」
尾花は少し腰を浮かせ、浅く座り、体勢を崩した。そして、大きく背伸びをした。
「肩から首が痛い。それで頭まで痛くなるんだ」
尾花は首を左右に揺らしながら言う。これ以上の話はまだないのだろう。嘘をつき終えた真結も、少し気を抜いた。
「そういえば、ミラモ・アキシアルの弟が、いなくなったのをご存知ですか」
「聞いている。北風島じゃ、神隠しだって、ちょっとした騒ぎになってるよ」
やはり、まだ見つからないのか。
「どこへ行ったのやらって感じだよ、本当に。朝にはいたっていう人もいるし、昼に見たって人もいるんだ。君のところの人間とね」
「久光も、心配しています」
真結は、もう一つ嘘を足した。別に、尾花の言い方におかしな響きはなかった。めんどうな事なので、シイカがいきなり消えたことは黙っていた。久光にもそう言った。
久光は、シイカは死んだと思うことにする、と言うと、急にいつもの調子に戻り、北風島へ探しにいくこともしなくなった。今ではもう、そのことは忘れてしまっているのではないかと思う。
「私は、どうやって兵を送り込むか考えるよ。そして、壬海と話をする。壬海の街の近くを通過しなければならないし、船も必要だ。鉈欧に言うことはできないから、全部壬海に頼むしかない」
「俺は、身支度を整えておきます。何もありませんけど」
もう、ちょうど買いためておいた煙草も切れるところだ。
「君にはいつも待ってもらってばかりだったが、それも今回のこれで終わりになるかもな」
二人は、ほぼ同時に立ち上がった。
一の丸を出てから、尾花の言ったことを思った。
良い意味なのか、悪い意味なのか。
塀に背中を預け、久光が何かを食べていた。
串に刺さった団子だ。串を持ったまま、大きく手を振っている。
左手には葉か何かに乗った団子が、あと四つほどあった。




