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シイカは気付いた。
言葉が通じているのである。この男が、一広高士。なぜか、疑問に思わなかった。だが、おかしいのは明らかである。
「なぜ、この言葉を話せるんですか?」
「おお、ちゃんと通じているのか。良かった。この言葉で人と会話するのは、本当に初めてなんだよ」
握った手を、そっとシイカは離した。
「ここらに人はいない。住んでいないんだ。でも山の方や内陸部では、普通に街が広がって、建物も大きく、たくさん車が走っている」
一広は、シイカの服装を下から上まで一瞥した。
「これならどこかの学生という感じだ。歩こう」
そう言ってシイカに背を向け、海の方へと一広は向かった。
「あの、知りたいことが、聞きたいことが、たくさんあるんです」
その背に向かって、シイカは言う。
「そうだろう。そうだろう。まあ、そんなにあせることはないさ」
一広は、落ち着いた声でそう答えた。シイカも歩き出す。数え切れないほどの質問が、胸の内から沸き上がってきた。何から尋ねたらよいのだろうか。
シイカの迷いに反して、足取りはおかしなほど軽い。体が本当に軽いのである。
この大地が、地球が、自分たちを引きつける力、重力が小さいと予想される。
本にはそう書いてあった。
「名前がシイカであっているかい。それとも、姓がシイカなのかな」
「名前がシイカで、姓がアキシアルです」
「私と逆だ。私は一広が姓、高士が名前なんだ」
一広は自分とほぼ変わらない、根島国の言葉を話す。発音も音の運びも、本当に根島国の人間と変わらない。
シイカは、一広の横に並んでさっきの通りに出た。少しだけ、後ろを歩いていた。
「ミラモ・アキシアルを知っていますか。それから、どうしてここへ来たんですか。そう。さっき、まるで僕がいるのをわかってたみたいに来ましたよね」
「知っているとも。ミラモ・アキシアルは、君のお兄さんだろう。一緒じゃないのかい」
シイカはつま先から地に足をつけ、体勢を崩しそうになったが、踵へ体重を移し、もう一方の足を前へ出した。
「あの。ミラモは、死にました」
「死んだ? いつだ」
「二月の、二十八日です。二ヶ月前に」
シイカが言うと、一広は歩く速度を急に落とした。そして、そうか死んだのか、と独り言のように小さな声で呟いた。
「具体的に、どれぐらい旧世界のことを知っているんですか」
「やはり、私は君たちの世界から見ても異端かね?」
「はい。新世界の人間で、僕たちの世界の存在を知っている人は、おそらく一広さんだけではないかと言われています」
「どこから、話したらよいのか」
一広は低く唸りながら、少し下を向いた。
「記憶というか、僕らの世界のことを知ったのはいつ頃ですか」
シイカは何も知らない素振りをしようと思った。一広のこれまでの人生を知っている。だが、あの本を見なければ、ミラモしか知らないことだった。一広がどこまで知っているのかわからない。だから、黙っていようと考えたのである。
「別の国にいたことがあるんだ。アメリカ合衆国という国でね。ああ、記憶自体はおそらく、生まれた時からだった。
ただの想像だと思っていたし、そういう世界があるなんて、自分でも信じてはいなかった。
でもアメリカで、大工のような仕事をしていた時、結構な高さから落ちてね。腰にロープを結んでいたから、地面にはぶつからなかったんだが、斜めに体が落ちたせいで、こう、吊られた状態になって、壁におもいきりぶつかってしまったんだ。目を覚ましてからだ。
私は君たちのいる世界と、自分のいるこの世界の区別がつかなくなった。君たちのいる世界がね。
私の目の前にせまってくるんだよ。
断片的な記憶と一緒に。目の前、頭の中に広がっているんだ。まるで、自分がそこで生きているかのような気さえした。かわりに昔のこと、特に子供の時のことをほとんど忘れてしまった。
私も君に色々と聞きたい。私の見た世界は本当に存在するのか。
どこまで正しいのか。今日、君がここへ来ることを知っていたのは、記憶を持っていたからなんだ。だから、私は驚いている。
私が記憶だとずっと思ってきたものは記憶ではなかったようだからね」
右手に、砂浜へ突き出た小さな広場が見える。一広はそちらへ歩を進める。
「最後のはどういう意味です」
「ミラモ・アキシアルが見ている景色だと思っていた。私には、君がここへ来る様子がはっきりと見えていたんだ。もう、何回も来ている。
さすがに日付まではわからないからね。夕日があの海野山の右肩にかかりながら沈んでいくのは、今ごろなんだ」
ミラモや他の朗読者も、そんな感じなのだろうか。だが、人の人生を丸ごと知っているのではなかったか。ミラモの言い方は、そんな感じだった。
何かの像がある。人。墓か。その前にある長椅子に、一広は腰を下ろした。シイカも隣りに座る。
この人は、あの本に書かれていたことを忘れてしまったらしい。多分、それはそれでいいんだと思う。
しばらく、お互いの聞きたいことを聞き、そして言い、どれぐらい二つの世界について知っているのかを確かめた。本に書かれていたことも一広の口から直接聞くと、それはまた、新しいことのように思えた。
これが、ミラモの知っていた世界なのか。
二人は赤くなった空を背にしていた。前方の空はもう大分、暗い。
「そろそろ、行こう。私は」
一広は腰を上げた。
「その施設は遠いですか」
「歩ける距離だ、大丈夫さ」
シイカも立ち上がった。
まだ知らないことが山ほどあった。
「シイカ君。君はもうそろそろ、戻らなくてはいけない。歩きながら話をしよう。いや、最後は私の話を聞いていてくれないか」
先に一広が歩き出す。無意識にシイカも歩き出した。
来た。ここまで来た。それはいい。うまくやれた。僕の考えは当たった。
リムに潰されて、死ぬ。それすら見えなかった。ここで終わってしまうか。新世界へ行けるか。でも、上手くいった。そこまでしか考えていなかったのを、僕は忘れていた。
これから、夜が来る。この新世界にも。また、怖くなった。
強い光を放ちながら、後方から車が自分たちを追い抜いていく。
「君は、自分たちの世界のことを、旧世界と呼んでいるね。それはどうしてかな」
「それは多分、朗読者が別の世界から新しいものを持ってくるため、逆に自分たちの方が古い世界だと表現したからだと思います」
「私のこの記憶を辿るとね、始まりは旧世界なんだ。まだ何も見えない。でも、私はそこにいる。そういう感覚があるんだ」
「それはどういう意味です」
右手は低い砂浜。
建物は点々としていて、常に波の動きが見える。
空は、とても高い。気のせいではなく、本当に高いのである。
もう、日は完全に沈んだだろう。
道は真っ直ぐで、ずっと向こうには何か黒っぽい塊がある。森だと思う。そこまで、この信号も続いている。
「この世界でも、私は自分のことを異端だと思うんだよ。私の在るべき場所はここではなく、君たちのいる旧世界なのではないかと」
一広の言葉は、自分自身に言っているようなもので、説明にはなっていなかった。
「それは、一広さんが旧世界の人間だという意味ですか」
シイカがそう訊ねると、一広は表情を崩した。笑ったのだ。




