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「てゆうか、どんだけ忙しいんだって話ですよ、まったく」
「そうだな。お前の言う通りだ」
エレベーターの扉が開く。ふくろうを乗せた犬、案内の男、真結、久光がそこにいた。
「ここから先は、うるさいやつと汚いやつは入れないらしい。ちょうど良かった。じゃあ、このまま、下の階へ降ろしてください」
「え?」
「これですか? じゃ、また後でな」
真結は壁から突き出ていた金具を押し下げる。それで、扉が音を立てた。
「凄い仕組みだ」
ふくろう、犬、久光が扉の向こうへ消えた。
「そして、ここで操作します」
男が、少し離れたところにある金具をつかみ、かなり強く押した。
「なるほど」
エレベーターが音を立て、箱が下へ降りていった。
真結は男が足元へ置いた靴を履いた。
男は、トルストやいつも周りで自分や久光を見ている男たちと同じ、黒いスーツ姿だった。だが、何か動きが窮屈そうに見える。
真結もスーツを着ている。ワイシャツにジャケット。ネクタイもしめている。鉈欧にいた頃と同じ格好だった。だから、真結は慣れている。
細い通路を歩く。前後に開閉する扉が、一つ。それと扉のない個室が二つ。この階は、これだけしかないのか。
「向山真結様をお連れしました」
わかった、と声が返ってくる。
「どうぞ」
男は、扉の方を手で差し示す。
「入ります。向山真結です」
真結は金具をひねり、扉を押す。ひどく痩せた男が一人、部屋の奥に立っていた。
「ずいぶん、やつれたようですね。尾花首相」
「君はずいぶん焼けたな、真結君。そして、大きくなった」
真結は扉を閉めた。男は歩き去ったようだ。
「俺のせいで、ミラモ・アキシアルが死にました。すいません、尾花首相」
腰から深く曲げ、真結は立ったまま頭を下げた。
「時間の問題だった。私が、時期を見誤ったんだよ。もっと、警戒すべきだった」
「ミラモ・アキシアルは、死ぬには惜しすぎた。俺がもっと早くに動けば良かったんです。塑山の動きに合わせようとしたのが、間違いだった」
「それは私たちも同意の上だった。裏切り者がいなければ、ミラモは死ななかった。塑山は、我々の動きには気付いていなかった。君は関係ない。頭を上げてくれ。もう、これからの話をしようじゃないか」
真結は頭を上げた。尾花は疲れた表情の中で、笑っていた。
「今年で十八になるそうだね。朗読者というのは皆、どうしてか大人びている者ばかりだね」
「記憶のせいでしょう。そうではない者もおります」
「記憶かあ。ミラモはまあ、危なっかしかったな」
尾花は皮張りのソファーに腰を下ろし、自分にも座るよう促した。
扉を軽く叩く音がした。さっきの男が、盆に茶碗を二つ乗せている。器は透明で、薄い緑色の茶と氷が透けて見える。この国に来て、初めて見る氷だ。
男は片膝を床につけて二つを卓に置き、部屋を出ていった。
「星老が、乗らない。布馬が羅亜南に押されていてな。今、塑山と事を構えられはしないと思う」
「そう、ですか」
こんな時に限ってか。真結は濡れた器をつかみ、直接喉に流すように茶を飲んだ。
「まあ、こんなもんさ。うまくはいかないようにできてるんだよ、この旧世界ってやつはさ。だが、塑山に手を貸す余力もないだろう」
旧世界は、いつもこんな感じだった。
敵と味方が、一日で入れ替わったりするのである。
壬海、塑山、星老は、お互いにいがみ合い、時には兵同士がぶつかり合うが、グルー大陸の均衡が極端に崩れたり、反国家勢力が大きくなったりすると、他の国に物資や援軍すら送ることをする。
「正直に話してほしいんだが、真結君、君はどれぐらいの兵を動かせる。鉈欧の現国王を通さずにだ」
「一人も。俺はまだ誰にも認められてはいませんから」
「トルストを壬海へ送った。聞いているな」
「はい」
「私は壬海から、鉈欧に渡った。現国王、そして壬海の首相もいた。それで、まあ今後どうしようかという話になったわけだ。当たり前の話だが、君は私より価値があるよ、真結君。私がこうして、無事に鉈欧から帰ってこられたんだからね」
「それは、良かったです」
父が、自分がこの根島国にいることをどう思っているのか。気になったが、真結はそれを聞こうとは思わなかった。
それから、今後、根島国から千単位で兵、民の流動を行うという話を尾花から聞いた。
「最後になるが、やはり鉈欧は荒れている。鉈欧にとって、街二つは大きかった。追月地区へ出ていく者すら現れたと聞く。止せばいいものを。どうせなら、壬海へ渡るべきだったと思う」
「どうせなら、そうですね。追月地区に入ったところで、まともな生活はできないでしょう。一時的に塑山がかくまうかもしれませんが、街の民がすぐ暴れ出す」
「そして、もう少し待ってくれたら、鉈欧から大型の船が出るのにな。壬海からも」
「壬海の軍が護衛を?」
「そうだな。さすがにそこまでこっちの人間を入れることはできないだろう。壬海の南で減った分を、我々が補う」
劇的なことも想像以上のことも起きてはいない。いやむしろ、それらは悪い方でばかり起きている。ミラモ・アキシアルの死。二つの街の陥落。
先の手は塑山にとられた。そして、まだこちらは一撃も返していない。
尾花が、どこまで自分に話したのか。
少なくとも、塑山対鉈欧、壬海、根島国の構図はできた。土台は作れた。だが、このまま順調にいかないのは、もうわかっている。
次の危険を冒すのは誰か。そして、どうやって。その段階である。
「まあ、少し様子を見ていなさい、真結君」
真結は、ぼんやりとしていた視界を再び尾花に戻した。
「また呼ぶよ。その時まで、しばらく時間をくれないかな」
別の、自分の知らない話か。それで、この疲れた表情か。
「まだ、何もできませんよ、俺は。人が足りないので」
真結は席を立った。
「そうか、そうか」
小さな笑い声を上げながら、尾花は茶の入った器に手を伸ばした。
「エレベーターのところまで行けば、秘書がいる」
「さっきの男が秘書ですか」
「ああ、そうだ」
「不慣れな感じでしたが、新しい人ですか」
「そう。朗読者じゃないんだけど、大丈夫かなとも思う」
「俺の周りにいる人たちを、そっちに使ってくださいよ」
「いや、彼らはあくまで監視だから」
「そうですか。無駄だと思いますよ」
氷の転がる音を背に、真結は部屋を後にした。
エレベーターの前に、さっきの男が立っていた。
「前にいた秘書は、どうなったのですか」
「私は、聞いておりません」
「まあ、首相も朗読者ですから、自分のことは自分で守れるのでしょう」
「そのようです。私はただ、身の回りのことをするだけです。お体の方は、そうですね、いざとなったら、首相頼みです」
男が、申し訳なさそうに言ったのが、真結にはおかしく思えた。
下まで降り、一の丸を出た。久光が犬の後ろをくっついて歩いていた。
「では、お気をつけて」
「どうも」
「あ、やっと来た」
後方から、久光のそんな声が聞こえた。真結はまだ男の方を見ている。どうやら、ずっと見ているつもりらしい。
西。一の丸から見て、左へ歩き出す。
「そういえば、いっつもいた男二人も、後から一の丸に入っていって、出てこないままなんですよ。このまま、置いていってもいいんですかね。てゆうか、私は置いていきたいんですけど。なんか目につくし」
塀の上にふくろうがとまって、こちらを見ていた。翼を広げ、飛んでくる。
「あと、さっき、一応下の階とかに勝手に降りて、一の丸の中を見たんですけど、三人ぐらい、朗読者いました。まあ、なんか色々文句言われてましたけど、一人も殺してないです。私、偉いですから」
それで、犬やふくろうに当たり散らしていたのか。
「なあ、トルストの言ってた裏切り者ってわかったか?」
左へ曲って、二の丸も通りすぎたところで、真結は言った。
「誰も知らないんですよね。少なくとも、竜廓の街の人たちは。あとは、役人に聞くしかないですかね」
「いや、もうそれはいい。組織で動いてるわけじゃないなら、残党もあまり考えられないだろう。少なくとも、この塀の内側じゃあな」
「もし、私があやしいと思ったら、勝手に捕まえていいですか?」
「こいつだ、と思ったら、大きな怪我をさせずにな」
「了解です」
久光は大きく背伸びをしながら、語尾の伸びた間の抜けた返事をした。
「あ、そういえば、そのことでシイカ君に聞くの忘れた。何だったかな、なんか、シイカ君が変なこと言うから、聞き忘れたんだよなあ。あのトルストとかいう男のこと」
「そうか。じゃあ、北風島にしかない煙草があったら、ついでに買ってこい」
「あと」
「いや、食いものはお前の分だけでいい。俺のはいらない。わかったな」
「そうですか、わかりましたよ」
そこらの石を久光は蹴っ飛ばした。そういえば、この辺りはとても石が少ない。落ちている石が、目につくほどしかないのだ。
こっちへ来て、二ヶ月か。
汗はかくが、あまり暑いとは感じなくなった。それでも、この格好はきつい。
上着を脇にはさみ、真結はネクタイをゆるめた。
さっき蹴った石を、久光はまた軽く蹴った。
平らな石が、地を横に回りながらすべっていくのを、真結は何も考えず見ていた。




