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「壬海へ行くことになった。もう、根島国へはいつ戻ってくるのかわからない」
まず、トルストはシイカにそれを伝えた。
「僕は一人でも大丈夫です。お金の管理は、トルストさんが手続きをしてくれたので、国に任せていますし、心配なら、人を雇います」
普段と変わらない落ち着いた調子の声で、シイカがそう言った。トルストは、それに驚いた。
「シイカ。簡単に言っているが、これからどうするつもりだ」
「わかりません。でも、まずは学校を卒業します」
夜の九時すぎだった。
「わからないのに、どうしてそんなに平然としているんだ?」
「そう言われても。中学校はちゃんと卒業しなくちゃいけないし、試験を受けて、国の仕事に就くぐらいしか、元々考えていませんでしたから」
シイカは表情も変えず、淡々と答えた。
金の管理については、特別な手続きをした。毎月少額ずつ、あまり手間のかからない方法で金を受け取れるように国に頼んでおいた。
「僕は平気です。一人で生きていけます」
また変わらぬ表情でシイカは言う。眼に力がある。
急になのか。前からこうだったのか。強がっているというわけには思えない。
「シイカ、何かあったのか」
「何もありません。ただ、いつまでも悲しんでいるわけにもいかないなと思っていました」
シイカは今年やっと十五になる子供である。まだ、子供なのである。
トルストは困惑した。
「だから、僕のことを心配しないでください。トルストさんには、トルストさんの人生があるじゃないですか」
そう言ってから、シイカは急に照れたような顔をした。それを見て、やはりシイカは子供なのだと思った。
「私の心配をしているのか、シイカ」
トルストは笑ってしまった。
ミラモがシイカを弟にすると言った時、自分はやめておけと忠告した。ミラモを自分と同じような人間だと思ったから、そう言ったのだ。
自分は弱い人間なのだ。そして、この子はそうではない。
「私は四月中はここにいる。その間は、できる限り毎日ここへ来る」
「料理の腕はまた少し上がったと思います。晩ご飯は、僕に任せてください、トルストおじさん」
呼び方が変わっていた。あまり、気にはならなかった。シイカ自身、気付いていないようだ。何か意図があるわけでもないらしい。
トルストは、あの話はまた今度でいいと思った。
家を出る。近所の家の灯かりが、強く光って見えた。
「また」
通りへ出てから、小型の翼竜を召喚した。シイカは扉のところに立って、こちらを見ている。
翼竜が羽ばたき、浮く。
合図のように、上空で何かが動いた。遠いが、自分にはわかった。朗読者である。
トルストは、何事もなかったように、ゆっくりと翼竜を上昇させる。道に沿って飛び、上がっていく。
暗い夜の空の中。気配は姿を見せぬまま、少しずつ実体へと変わっていく。自分を待っているのは明らかだ。
「真結様があなたを雇いたいと言ってる。返事は?」
顔のわかる距離にまで近づくと、女はいきなりそう言った。久光と言っていたか。
「壬海にて新たな仕事を任されたので、それは無理だ」
先に聞きたいことがいくつかあったが、トルストはそう返した。
「なんだ。良かったですね」
女は自分に背を向け、去ろうとした。リムの形は、差異はあるが、根島国の翼竜の形をしている。
「待て、なぜここにいる」
「あなたを探れと言われていたので。それだけです。あの子供は、ミラモ・アキシアルの弟ですね。朗読者ではないみたいですが」
「どれぐらい、調べた?」
「数週間ぐらいですかね」
つけられていたのか。まったく気付かなかった。そして、そんな素振りをみせていなかった。
女の乗っているリムが縮み、鳥のような、むしろ翼だけのものに変化した。
「では」
ちょっと手を上げ、女は飛び去っていった。
あの子には関わるな。そう、言おうと思った。女は翼の上に立つような恰好で、南へ飛んでいく。それを見ている。
翼が時々、月の光を反射する。
自分はシイカに何をしたらいいのだろう。それを言う資格が自分にあるのか。
もし。
また、そう考えてしまった。ミラモが生きていたら、向山真結はミラモを引き込んだだろう。あの男なら、二つ返事で力を貸したはずだ。
違いは若さか。簡単に想像できた。ミラモが生きていれば、どうなるのか。
シイカ。ミラモ。向山真結。三人とも遠いところにいるような気がした。いや、自分だけがそこにいないのだ。
各国。これから少しずつ、乱れていくだろう。その巨大な流れは止まらない。自分が壬海へ行くのも、その流れのせいだ。
シイカの言いたかったことは、こういうことなのかもしれない。
自分には自分の人生がある。
あの子は意志の強い子だ。強い子なのだ。きっとそうだ。
トルストを乗せた翼竜は、頭を東へ向けた。
北風島の内陸部。
庶民の暮らす、大きめの街が広がっている。
下に見える灯かりより淡く、縦にも横にも広がっている。
自分のしていること全てが、自分をなぐさめるためにしていることのように思えた。
だから、トルストは大事だと思うことを何も言えなかった。また、言うべきでないような気もしたし、それどころか、意味すらないような気もした。
今日は珍しく、とてもよく晴れていた。
翼竜が羽ばたき、体を起こす。
トルストは、高く飛びたいと思った。




