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一度降ると、外では声も聞こえないほどの勢いで、雨が降ってくるようになった。
これが、五月の雨らしい。
惜しかった。トルストが、いなくなってしまったのだった。
五月に壬海へ行く。三日前、そう言った。
トルストはそのことしか話さなかった。
久光がミラモ・アキシアルの弟や、トルスト自身のことを調べていたことを、何も聞いてこなかった。
真結も、自分のために動いてほしいとは言わなかった。もう、次のことを考えていた。根島国へ来て、二ヶ月が経つ。そろそろ、この国の権力を握る人間に近づくことをしなければならない。
こちらへ来てから、あの男とは、まだ一度も顔を合わせていなかった。
壬海とのこれからのことも、それなりに落ち着いたことだろう。
鉈欧の王族に戻らないといけないな。
夕方、雨が上がった。
「では、行ってきます」
そう言って、久光が扉を開けた。出てすぐに、いきなりリムを出す。
「おい」
外からそんな声が聞こえた。真結は煙草を吸って、窓から顔を出した。
「向山様。何度も申し上げておりますが、許可なく城内でリムを出すのはお止めいただきたい」
「すいません。私も何度も言っているのですが」
窓から身を乗り出し、真結は頭を下げた。
相手は見張りの人間である。
いつからだったか忘れたが、もう姿を隠したりすることもせず、堂々と自分の周りにいるようになっていた。
常に二人、男が建物の外にいる。だが、何をしても許されていたし、おかしなこともしようとしなかったため、真結は好きにさせていた。
そして真結自身も、好きに動いていた。竜廓の街へも退屈したら行くことができる。
「人を呼びますが、いいですか?」
「届け出を出していただければ」
言ってから、めんどうなことになるかもしれないと真結は思った。
「いえ、それなら塀の外へ私が出ます。それなら、いいでしょう」
外で並んで立っていた男二人は、顔を見合わせていた。
「大事に考えないでください。最近、知り合いができまして」
真結は煙草の火を消し、窓を閉めた。
外へ出る。犬とふくろうがついてくる。男二人が、こちらを向いた。
「これから、出かけます」
真結と犬、ふくろうは、男たちに背を向けた。正門を目指して歩く。
全面的な兵による戦争。そうはなりそうもない。
街では、新聞が売られていた。
それを、街に出るたび手に入れ、読んだ。
部屋にはずいぶんとたまっている。街の人間に色々と尋ねたり、久光にも動いてもらったりして、根島国の動き、壬海、星老の物流の変化を調べていた。
既に塑山と根島国は、完全に国交を断った。
星老と壬海。どちらかが裏切るのではないか。
そう思っていたのである。
今のところ、両国とも、前々から予定していたかのように、塑山との取り引きを抑え、根島国との貿易を増加させている。
少しずつだが、国という規模でそれが起きているのだ。
実際、予定されていた。上の人間同士の取り決めが終わってから、ここまで来るのに既に一年は経っている。
一番最初にそれを始めたのは、鉈欧にいた頃の自分であった。
本当に信用が置けそうな者は久光だけだった。
しかももうその時、久光は鉈欧にはいなかった。
王宮に仕えていた人間に、金を握らせるしか方法はなかった。
しかも動かせる人の数は、確か十人にも満たなかったはずだ。たったそれだけの人数で、良くやったと思う。しかも父や、それ以外の人間には見つからずに、全てをやってのけたのだ。
久光が戻ってくるまで、まだまだ時間はある。塀の外をぐるりと回るつもりであった。どうせ、戻ってくるのだが。そう思い、ついてくる二人の男の方を見た。
鉈欧にいた時も、王宮から外へ出る時はこんな感じだった。王族に戻るのである。いちいち、気にする必要もないか。
そう、分家の王族に。
塑山は、国名であると同時に、本家の姓でもあるのだ。要は、向山とは海を隔てた島にいる者という意味合いなのであった。
道が、ひどくぬかるんでいる。泥が踵の先から跳ね上がり、真結のふくらはぎ辺りにつく。真結も、街の人間と同じように、半袖丈の服装になっていた。だが、靴は履いていた。
久光が言うには、ここで履かれている草履は、水を含みづらく、すぐに乾く特殊なものらしい。
それでも、足先が濡れるのが嫌で、真結は靴を履き続けている。今履いているのは、塑山で買ったものだった。
鉈欧から履いてきたものは底が抜けたので、中央辺りで捨てた。久光は下駄もあると言い、勝手に買ってきていたが、真結はそれをベッドの下に放り込んでいる。
日が、長くなっている。いつもより遠くまで見える。
一周は無理だな。時間も伸びたような錯覚を感じた。いくら雨が激しく降っても、ほとんど風は吹かない。川があふれることもない。周りに反して、気分だけが穏やかでない。前もこうだった。
始まる時は、いつも肌の表面が薄くめくれるような感覚が生じるのであった。慣れてはいないが、はっきりと覚えているので不安にはならない。
ただ、できると自分だけを強く信じればいい。信じられないなら、もっと強く信じるだけだ。信じられるものは限られている。所詮は、博打なのだから。
ふくろうが犬の背から飛び立った。後方、北の空へ飛んでいく。
真結も犬も気にした様子はなく、のんびりと歩を進める。
風とはまた別の熱気が、下からわき上がってくる。それを足首から膝の辺りに感じる。
ちょっとさらってきて、話をして帰す。真結は、そんなことを考えていた。
弟のシイカ・アキシアルに興味を持ったのは、久光だった。
久光にも部下はいた。
皆、女だと言うが、一度も会ったことはなく、何人いるのかも知らない。
おそらく、部下というより、同士のようなものだろう。
久光については、布馬で生まれ、北へ歩いて星老、東へ歩いて塑山という感じで流れ着いたとしか、聞いていない。久光が話したがらないのであった。
布馬の人間の容姿は知っていた。久光は、間違いなく根島国と布馬の人間の混血である。
今年で二十三になるが、いまだに年上のようには思えなかった。
だが、真結は色々と鉈欧にいた頃に調べていたので、知っていた。
おそらく久光は、布馬の兵として育てられたが、集団脱走をした若い朗読者の内の一人だ。
敵は、南から押し上がってこようとする羅亜南。塑山と鉈欧の関係に、少し似ている。
何日かぶりに空が赤くなっていた。また、青くもある。
自分と同じように散歩をしている老人が前から歩いてくる。老人の足元には本物の犬がいた。毛色は薄い茶で、その毛は目が埋もれるほどの厚みがある。
老人が自分の犬に気付いた。
犬は太い縄でつながれているが、老人の手を引くようにしてこちらへ歩いてくる。真結の犬が二歩ほど真結の前に出る。
すると、老人の犬がしっぽを振りながら低い声で吠えた。
当然、こちらの犬は銀色で、声を出すことはできない。老人の犬は首を左右に動かしながら、また吠えた。
真結の犬は、その動きに合わせて左右に体をゆすってみせる。
「壬海の方かな。それとも、星老の方かな」
初めて、老人が口を開いた。
「私は、鉈欧から来ました」
犬が大きく見えたが、老人が小さいのであった。老人は塑山とは言わなかった。
「はて、わざわざ鉈欧からですか」
犬が、自分の足元まできて、まるで猫のように脇腹をかすらせて歩き回る。
真結の犬が歩を進めた。真結も、その犬をまたぐようにして避け、歩き出す。
それ以上、老人の言葉は続かなかった。
左手には外堀が続くが、右手は視界が広がり、街の形を成しているのがよくわかる。大きな木が南に向かってほとんどすき間なく植えられ、それが道を形作っている。その向こうに建物がある。人の声もする。
堀が大きく左へ曲がっているところには、ちょっとした広場のようなものがある。子供の声が聞こえる。
道から少し外れた足の短い草が生えたところに、真結は入る。草は濡れているが、足首までも届かない。もしかすると苔の類なのかもしれない。
真結は、前方に手を伸ばす。何かを抽出するように、そこに練成で一人掛けの椅子を作り出す。中心から形が定まる。大きな塊からそのまま切り出したような、単純な形をした椅子。そこへ真結は腰を下ろす。
犬はそばに寄った。二人の男は少し離れて、大木の下で並んで立っている。二人とも、朗読者ではない。腰には小さな銃を備えている。
真結は広場の内側を見ていた。
遊んでいる子供。その近くを歩いている大人。誰も、急いでいない。足を半分投げ出すような感じで体重を後ろへ預ける。犬は伏せてしまって、腹をべったりと濡れた草につけている。
後ろの方で、男たちの声が聞こえた。振り返るのがめんどうだった。
「連れてきました」
少しだけ、真結は上を向く。久光が、鳥のようなリムに乗って、こちらを見ていた。隣りには子供がいた。手を着き、リムにしがみつくような感じになっている。
乱暴に、リムが降り立った。
「お前、ちゃんとわけを話したか、久光」
「はい、話しました。もちろん」
「ミラモ・アキシアルの弟だな」
真結は視線を移し、そう言った。子供は、自分の足で濡れた草の上に立った。明らかに不安そうな表情で黙っている。
「なぜここにいるのか、わかるか」
「鉈欧の王族がいるから来い、とこの女の人が。それ以外のことはわかりません」
「座れ」
同じように、練成で椅子を作り出す。
「久光、お前はちょっとあの男たちに事情を話してこい。俺はこいつに事情を説明す
る」
「それは、もう私が話しましたが」
「そうだな。わかったから、行け」
「うわ、絶対信用してない」
歩きながら、顔だけこちらへ向けて久光が不満をもらす。
「あなたが、その鉈欧の王族?」
髪の長いその少年が、真結に問う。
真結は、思いのほか低いその声で、少年が本当に男なのだと確かに認めた。




