その先にあるもの(下)
あんなにも焦がれていた自由な生活も、手に入れてしまえばかえって不自由なものになるのかもしれない。
友人もこれといって多くなく、特に趣味や遊びに時間を費やしているわけではない私は、急に出来てしまった時間を持て余してしまっている。
結局、いつも通りに起床して仕事をし、まっすぐと家へと帰る生活の繰り返し。
制限があろうとなかろうと、個人の資質次第で生活はさほど大きくは変化しないらしい。
そう考えると、衝動的で破天荒に見える姉の行動は、ただ本人がやりたいようにやっていただけなのかもしれない。
親への反抗心だとか世間体への反発だとか、そういったものは誰であれ多少持ち合わせているとは思う。けど、ああいった発露の仕方をするというのは、根本的に個人の資質によるものだったのだろう。私は、たぶん一生かかっても理解できない範疇だけど。
自分のやりたいことをやりたいようにする。
それが彼女を彼女らしくしているベースのようなもの。
うらやましいと思う反面、それに伴う周囲の反応やら後始末まで考えてしまう自分は、所詮小心者だ。私は私でしかありえない、わかりきってはいたけど、少しだけ自分に嫌気が差す。
何をしたかったわけではない。
――ただ逃げ出した。
だけど、限界だと思って手放した生活に戻る気はない。
でも、後もう少しだけ違う方向で努力してみたらよかったのに。そんなことを思う。
フルフルと頭を振って、ユニットバスのバスタブからあがる。
好きな時間に好きなだけ、誰にも干渉されずにお風呂に入れる瞬間だけは、ことさら強く今の生活がありがたいものだと思えてくる。
「相澤さん、今日暇?」
同期の女性に個人的な事ではじめて声を掛けられた。あまりない急な出来事に、その場でしばし固まってしまう。
「そんな驚いた顔しないでよー」
私と異なる少し高い声の彼女は、同じ部署にいるというのに仕事以外の会話を交わした記憶がない。別に彼女が嫌いだとか、苦手だとか、そんな積極的な感情を持ち合わせているわけではない。ただ単に職場でプライベートな関わりをもつことが面倒だっただけだ。
「えっと、暇ですけど……。残業ですか?」
アシスタント的な仕事をこなしている彼女が、私に仕事を押し付けることはないとは思うけれど、やはり他に思い当たる節がないため、思わずこんな質問をしてしまう。
「違うって。おいしいお店を見つけたからよかったらどうかなって思って」
「おいしい、お店?」
「そうそう、あ、相澤さんって好き嫌いある?」
「へ?ない……、ですけど」
「そうだよね、相澤さんってきちんとしてるから、好き嫌いとかなさそうだし」
それからひとしきり彼女の嫌いな野菜の話を捲し立てられ、呆気にとられた私は、
「じゃあ、7時にエレベーター前でまってるから」
と、言われた一言に咄嗟に頷いてしまった。
よく、わからない現象が起きた気がする。
確かに今の時期は全体的に仕事が少ない。そのため、定刻通りに帰ることは十分可能であり、仕事帰りに会社の人たちとどこかへ行くということも別段不思議な出来事ではない。
だけど、誰とも個人的な付き合いはせず、忘年会と新年会のみ、しかも一次会で抜ける。といった態度をとりつづけていた私に、こんな出来事が起こるはずもない。
狐につままれたような気分で、退社時間までを過ごす。こんな上の空の状態で仕事をしたことは初めてで、こんな気分でもそれなりにこなしてしまえる事に感心した。
「あ、相澤さーーん」
春らしいスプリングコートを身に纏った彼女が、軽やかな声をあげる。彼女の周りにだけ淡い色の花が咲き乱れていそうだ。
はやくはやく、と袖を引っ張られながら連れて行かれる。こんな風に、同性といえども人と身近にいる機会が最近全くなかったことに気がつく。
スパイシーな香りを漂わせながら、数種類のカレーらしきものが並べられていく。彼女が連れてきてくれる店が、まさかエスニック料理だなんて予想もしていなかった。彼女には、もっとかわいらしい雰囲気のお店が似合うと思っていたのに。
「色々な国の料理を食べるのが好きなんですよ」
こちらを眺めながらスプーンで料理を口に運んでいる。
「おいしい……」
彼女のお勧めを言われるままに口にした私は、素直に感想を述べる。
「でしょ!!やっぱりね、相澤さんならわかってくれると思ったんだ」
照れたような笑顔で答える彼女。たわいもない会話。
こんなにも食事がおいしいと思ったことは久しぶりかもしれない。
「雰囲気変わったよね、美緒ちゃん」
いつのまにか呼び名が下の名前にシフトしていたのにも驚いたが、彼女の言っている内容にさらにびっくりさせられる。
「変わった??私が?」
生活態度も就業態度も、私の中では僅かな差も起きてはいない。姉のように自由を謳歌することが、どれほど自分に向いていないかということを痛感している最中だ。
だけど、あまり親しい交流のない、第三者からみても何がしかの変化がもたらされたようにみえるのだろうか。
「そうそう、なんていうの?明るくなったっていうのとも違うし……」
軽めのお酒を飲みながらそれが癖なのか、軽くウェーブがかった髪を指に巻きつけながら考え込んでいる。
「うーーーん、柔らかくなった?っていうのかな。近づきやすくなったのね、とっても」
「近づきやすい?」
「うん」
ということは、裏を返せば今までは近づきにくかったということになる。
割合と自覚はあったけれども、突きつけられれば困惑する。その手の言葉は学生時代にいやというほど浴びているから。
声には出さなかったけれども、表情に表れていた自分のせいか、彼女の方から慌てて弁解が入る。
「や、だって美緒ちゃんって、すっごい真面目じゃない。仕事熱心だし」
「真面目、なつもりはなかったんだけど……」
小さい頃から繰り返し言われてきた言葉を反芻する。
そうして、その言葉の裏に隠されている意味も脳裏に掠める。
「変な意味はないよ?ちゃんと仕事してるって意味だからさ!!!」
私の心の奥深い部分まで見透かされているかのように、彼女がフォローを入れる。
少量のアルコールのせいか、私のガードがゆるくなっているのかもしれない。それほど、彼女のもつ雰囲気はやわらかく、とても居心地がよい。
話しながらも思考があちこちと飛び回る。
子供の頃の私、少女の頃の私、そして今の私。
結局のところ、周囲が自分に求める「私」を演じていただけだ。優等生で勉強ができる「はず」の私は、それ以外の「何か」になることを極端に恐れていた。成績が落ちたら、校則を破ったら、私は私の持っている価値を失ってしまう。
長い間そんなくだらない幻影に囚われていた。いい子だから私は声を掛けてもらえる。ずっとそんな風に思っていた。条件付の愛情。
そんなものは守るために自分自身で作り上げた、ただの言い訳にすぎないのだと気が付いたのは社会に出てからなのかもしれない。
気が付けば、それ以外の部分で評価をしてくれる人間がたくさん傍にいてくれたのかもしれないのに。私は、その人たちの気持ちすら疑っていたのだと、情けなく思う。
「美緒ちゃん……。大丈夫?」
飲み物を持つ手を止め、たぶん一点を見つめていたであろう私に声が掛けられる。
「ごめんなさい、ちょっとぼうっとしてしまって」
「こっちこそごめんね、なんか私ばっかり一方的にしゃべっちゃって」
どこまでも柔らかな印象を与える笑顔で彼女が答える。
「いえ、話を聞くのは好きだから」
思考を一端停止して、彼女の話に集中する。
女同士の気取らない話は、果てしなく続いていき、初めて食事に行ったというのに、井戸端会議の様相を呈した食事会は次の舞台へと移っていった。
間接照明が温かい雰囲気を醸し出している店で、あまり飲めないお酒を片手に彼女と話しつづけている。
もっとも一方的に聞いている方が多いのだが、それでも今までにないぐらいたくさん話していると思う。話すということは自分の中を整理する効果があるのか、今までわからなかった自分の側面をあらわにしていく。それは心地の良いものばかりではないけれど、今の自分自身に必要な儀式なのだと受け入れる。
次の日、鏡の中でみた自分の顔は、いつもとかわらず、でも少しだけ棘がとれたような表情をしていた。
姉のことを羨んでいた私。だけど、心のどこかで優越感に浸っていた。血のつながった姉だからこそ持ちうる複雑な感情。
自分以外には無頓着だった私が唯一こだわりをもった人物、多紀のことにしても、単純に多紀本人に関心があったわけではなかったのかもしれない。
あこがれて、羨んで、でも見下していた姉を見ていた「多紀」だからこそ、私は彼の背中を追いかけていたのだろう。
家を出て、一人になってみて初めて、私は彼にそれほど思いを残してはいないのだと思い知った。そう考えると、私は初恋というものすらきちんとしていないことになる。
ただ、相変わらず雑踏の中、誰かの姿を探してしまう。追い求めているものは姉なのか多紀なのかよくわからないけど。
今更ながらに、取り残してきた姉のことを考える。
きっと今ごろ息苦しくなって、飛び出しているはずだ。私と異なり、そういった決断を下すのは驚くほど早い人だから。
変わっていく自分、変わっていく関係。このままでいいはずはない、けれど今はまだ立ち竦んで動けない。
一人でいる時間が良い影響を与えてくれるのならば、しばらくはまだこのままでいたい。
空の向こうに飛び立ったであろう姉のことを考える。
それでもまだ、私は混沌の中。