第2話 北境へ
王都を出立したのは、翌朝だった。
見送りは最低限。形式だけ整えた護衛兵が四名、無言で馬車の前後につく。父も母も現れなかった。いや、来られなかったのだろう。アルヴェーン公爵家はすでに王家から睨まれている。ここで情を見せれば、連座の危険すらある。
私は振り返らない。
石畳を軋ませて進む馬車の小窓から、遠ざかる王都の白い塔が見えた。あの塔の最上階で、私は王妃教育を受けてきた。礼儀作法、歴史、外交、軍制、財政――すべては“隣に立つため”のもの。
だが、もう違う。
隣ではなく、上。
そう思った瞬間、自嘲が漏れた。
「……滑稽ね」
王太子妃にすらなれなかった女が、王を夢見るなど。
だが胸元の熱は消えない。むしろ王都を離れるほどに強まっている気がする。戴冠の兆し。王家の血が持つという異質な魔力。それがなぜ私に宿ったのか、答えはまだ出ない。
ただ一つ確かなのは――教会がこれを恐れたということ。
聖教会は“神に選ばれし王”を掲げる。王は神の代弁者であり、その正統性は教会によって保証される。だがもし、王家の血そのものが“選び直し”を行うなら。
教会の権威は揺らぐ。
だから私は、消された。
「お嬢様」
御者席の隣から、か細い声が聞こえた。
侍女のマリアだ。私と同い年で、幼い頃から仕えてくれている。彼女だけは、どうしても離れないと言い張った。
「寒くはありませんか?」
「平気よ。あなたこそ」
「私は丈夫ですから」
笑うが、その目は赤い。
泣いたのだろう。
「……マリア」
「はい」
「戻りたければ、戻ってもいいのよ。北境は厳しい土地だと聞くわ」
修道院送りとは名ばかり。北境は魔獣の出没地帯で、王都の影響力も薄い。実質的な流刑。
マリアは首を横に振った。
「お嬢様が行く場所が、私の行く場所です」
即答。
その無垢な忠誠が、胸に刺さる。
私は“赦さない”と決めた。優しさを捨てると決めた。だがこうして手を差し伸べられると、揺らぎそうになる。
いけない。
情は刃を鈍らせる。
馬車は北へ北へと進む。石畳が土道に変わり、やがて轍の残る荒れた道へ。空気が冷え、木々の密度が増す。王都の洗練とは無縁の、野生の気配。
日が傾き始めた頃、護衛兵の一人が声を上げた。
「止まれ!」
馬車が急停止する。
次の瞬間、矢が一本、御者台に突き刺さった。
「賊だ!」
森の影から、十数名の男たちが現れる。粗末な鎧、濁った目。山賊。北境では珍しくないと聞いていたが、まさか初日からとは。
「金目のもんを置いていけ! 命は助けてやる!」
護衛兵が剣を抜く。
だが数が違う。王都の精鋭ではない、形式だけの護衛。数合も打ち合えば押し切られるだろう。
マリアが震える。
「お嬢様……!」
私は深く息を吸った。
戴冠の兆しが、鼓動と同調する。
だが、ここで力を使うのは危険だ。教会の目がどこにあるか分からない。王家の魔力は隠すべき札。
賊の一人が馬車の扉に手をかけた、その瞬間。
風が裂けた。
低く唸るような音。次いで、賊の身体が宙を舞う。
黒。
視界の端を、漆黒の影が駆け抜ける。
重厚な鎧。顔を覆う兜。背に翻る黒の外套。巨大な剣が、月光を弾く。
一閃。
二閃。
賊たちが次々と倒れる。悲鳴すら長くは続かない。圧倒的。戦いと呼ぶには一方的すぎた。
やがて静寂が戻る。
立っているのは、黒騎士ただ一人。
彼はゆっくりとこちらを向いた。兜の奥から、冷たい視線が注がれる。
「……王都の紋章付き馬車とは珍しい」
低く、よく通る声。
護衛兵たちは呆然とし、礼を述べようともがくが、言葉が出ない。
黒騎士は興味なさげに剣を払うと、血を振り落とした。
「貴族の娘か」
問いというより確認。
私は馬車の扉を自ら開け、地面に降り立った。裾が土に触れるが構わない。
「元、ですわ」
彼の視線がわずかに細まる。
「名は」
「レティシア・アルヴェーン」
わざと家名まで名乗る。
反応を見るために。
黒騎士は一瞬だけ沈黙し、やがて小さく鼻を鳴らした。
「聞いたことがある。婚約破棄された王太子妃候補」
噂はもう広まっているらしい。
「お恥ずかしい限りです」
「泣かないのか」
不意の問い。
私は瞬きをする。
「何を、でしょう」
「家も地位も失った。賊に襲われた。普通は泣く」
その声に嘲りはない。ただ事実を述べているだけ。
私は首を傾げた。
「泣いたところで、状況は変わりませんもの」
黒騎士はしばし私を見つめ、やがて言った。
「泣かない女は信用しない」
「それは残念ですわ」
「だが、嫌いではない」
風が吹き、外套が揺れる。
「北境は甘くない。修道院へ向かうなら、護衛が必要だ」
「あなたが?」
「依頼があれば」
商売、とでも言うように淡々と。
私は彼を観察する。立ち姿に隙がない。賊を一瞬で殲滅する実力。鎧の意匠は王国式ではない。隣国――ヴァルディアの軍装。
敵国の将。
なるほど。
「報酬は」
「命」
短い答え。
私は笑った。
「安いですわね」
「高いだろう」
確かに。
私は一歩、彼に近づく。
「では取引をいたしましょう。あなたが私を北境まで送り届ける。その代わりに、私が持つ“王都の情報”を差し上げる」
護衛兵たちがざわめく。
黒騎士の視線が鋭くなる。
「裏切るのか」
「捨てられたのです。忠誠を求められる立場ではありません」
静かに言い切る。
彼は数秒、沈黙したのち、口元だけで笑った。
「面白い」
そう言って、兜を外す。
現れたのは、鋭い灰色の瞳を持つ青年だった。想像より若い。
「エヴァンだ。ヴァルディア北軍将」
やはり。
敵国の将軍。
私は裾を摘み、優雅に一礼した。
「よろしくお願いいたします、エヴァン将軍」
彼は私を見下ろす。
「一つ忠告だ、レティシア」
「何でしょう」
「国を憎む女は多い。だが国を壊せる女は少ない」
その瞳が、胸元の奥を見透かすように細められる。
「お前はどちらだ」
胸の奥で、戴冠の兆しが強く脈打つ。
私は微笑んだ。
「まだ、分かりませんわ」
だがいずれ。
分からせてみせる。
夜の森に、黒騎士と追放された令嬢の影が並ぶ。
それが、この国の均衡を揺らす最初の一歩になるとは。
まだ誰も知らない。




