決断ゆえに15
近くで鳥のさえずる声が聞こえてそっと目を開けてみると、周囲は薄っすらと白い靄が立ち込めていた。それが朝靄だと、ぼんやりとした頭で気付くのと同時に寒さを感じて両手で体を抱いた。
足の感覚が鈍く、少しでも動かせば痛みのような痺れがあった。無理に動かそうとはせず、痺れが治まるのを待ちながら靄を見続けた。次第に霞の向こう側に無数の墓石らしき物が見え始めると、ここが墓場だということを思い出した。
いつ寝たのかは定かではないが、どうやら座ったまま寝ていらしい。どうして此処にいるのだろう、と昨日の記憶を辿ってみると、行きついた先に穂乃香がいた。逃げてきたのだと思い出した。
冷たい風が吹き抜ける。夏の手前とはいえ、早朝はまだ肌寒い。このままでは風邪をひきかねないと、足を慣らしながら立ち上がった。帰る前に墓を見た。結局、父さんと母さんは夢に出てきてくれることはなかった。
バス停に着いてから落ちていた携帯の電源を入れた。時刻はまだ午前六時前で、一番早くてもバスの到着時刻は一時間以上あった。家まで結構な距離はあるものの、座って待っていても体が冷えだけだと、靄が掛かった道をとぼとぼと歩き出す。
日が昇って間もない道路は車の通りも通行人の姿もなく、遠くからバイクの走る音がするだけで、自分の足音だけがやけに大きく聞こえてくる。とても静かで、こうして一人で歩いていることが不自然なような気がして隣に目をやった。そこにはぽっかりと空いた空間があって、何かが足りないのだという感覚だけがあった。
――――
一時間ほどで自宅に着いた。
穂乃香に気付かれないようにそっと玄関のドアを開け、まっすぐに脱衣所へ向かった。シャワーを浴びてまた制服を着る。髪の毛は乾かさなかった。ドライアーを使えば穂乃香が起きてしまうかもしれないと、出来るだけタオルで髪を拭いた。
脱衣所を出る前に時間を確認した。七時前。まだ大丈夫だと、ドアを開けた。
「おはよう。いつ帰ってきたの?」
声が聞こえて足が止まる。そうだよな、と心の中で呟いて顔を上げる。どれだけ静かにしていても、微かな物音がすれば穂乃香が気付かないはずがない。
いつだって、そうだった。
「朝ごはん食べる? 昨日はシチュー作ったんだよ」
寝起きとは考えられないほどはっきりした声で穂乃香は言った。いつ寝て、いつから起きていたのだろうか。
「昨日ね、雪花ちゃんと一緒に買い物した時ね、お肉が安かったから、多めに買ったから。温めればすぐに用意できるよ」
そう言って穂乃香は台所へ向かった。昨日作ったのがシチューなら、一昨日は何を作ったのだろう。残った夕食はその後、どうなったのだろうか。捨てるとき、どう感じたのだろうか。
もしかしたら食べてくれるのではと思って作っていた時の気持ちは、どんなものだったのだろうか。
「もう少し待っててね、あと――」
「穂乃香」
続く言葉を遮った。穂乃香の視線を感じる。
「いらないって、言っただろ」
「でもね、食べてくれないと余っちゃうよ」
困ったような穂乃香の声。言葉に詰まった。言い争いはしたくなくて、足元を見つめたまま穂乃香の横を通り過ぎる。急ぎ足で階段を上がり部屋にドアを開けた時、託真、と一階から穂乃香が俺を呼んだ。
「託真が何を言っても、私の意思は変わらないから。だから、せめてご飯はちゃんと食べて」
「いらないって言っただろ」
「今までどうしてたの?」
また言葉に詰まる。思い返せば、成瀬が傍に居た時だけがまともにとった食事だった。それを伝えれば、穂乃香は心配するだろう。余計なことは言う必要ない。
「顔色も悪いよ? 髪の毛も乾かしてないよね?」
ドアを閉めた。
――――
学校に着いてからはなるべく穂乃香に接触しないように気を付けた。移動教室やトイレの時以外は教室から出ることを控え、昼食は登校中に買っておいたパンを食べて過ごした。淡々と授業を受け、ただ時間を消費していった。
その日、穂乃香は俺の教室に来ることはなかった。
――――
全ての授業を終えれば大多数の生徒が教室を出て行く。しばらくお喋りに興じていた人も、茜色の光が差し始める頃にはいなくなった。
静かな教室で席に座ったまま、時折遠くから聞こえてくる誰かの声を聞いて、夕日に染まる街を眺めていた。
誰もいないと思っていた。だから、急に聞こえた声に驚いた。声のした方へと顔を向ければ夕貴がいた。
「託の決めた事に口を出さない。僕はそう言ったね」
夕貴から向けられる真っ直ぐな視線がなんだが痛くて、そっと視線をそらした。
「……どうしたんだよ」
「託はお兄さんで穂乃香ちゃんは妹。これまでも、これからもずっとその関係は変わらないよね?」
夕貴も穂乃香の話を俺に向けた。今まで一切口を出さなかったから、このまま見逃してくれるのだと思っていたが、そうではないらしい。
「それで離れられるの?」
夕貴の言葉が胸に刺さる。返す言葉がない。
「無理だよ。家族なんだから。託だってわかっているでしょ?」
「……夕貴も、知ったんだな」
「だって、変だったもん。そのくらい僕にだってわかるよ」
そう言って夕貴は笑った。いつもののんびりとした夕貴の顔に安心して苦笑いが出た。その笑いもすぐに収まり、また、夕貴が俺を見つめる。話は終わらない。
「兄妹だから、家族だから、好き合ってちゃいけないって託は考えて避けているんだよね? それで穂乃香ちゃんを苦しめてるんだよね? 自分の気持ちを抑え込んで、よくわかんないんだけど、何が変わったの? 悪くなっただけじゃない? そんなことで今まで悩んでたの?」
一歩距離を置いて見ていた夕貴にはそう見えていたのだろう。そして、今まで思ったままのことを言葉にした。それ故に遠慮がなく、鋭く胸を抉ってくる。
穂乃香を苦しめてる。間違いじゃない。何も変わっていなくて、悪くなっただけ。それも事実だった。でも――。
「そんなことじゃないんだよ……」
夕貴のその言葉が引っ掛かった。
「そんなことだよ。考えるのも馬鹿馬鹿しいじゃない。離れられないのにムリして離れようとして互いが苦しんでる。これが託のしたいことだったの?」
「そうだよ。これが俺のしたかったことだ」
「また嘘を吐いた」
揚げ足をとるように夕貴が言う。
「兄妹なんて関係ない。離れる必要はないんだ。二人はもっと話し合うべきだよ」
「……お前は何もわかっていない」
俺がどれだけ考えているのか。どれだけ苦しんで、穂乃香と離れようとしたのか。
「わかりたくないよ。そんな考え」
咄嗟に手が出そうになった。何も知らないくせに口出しするな、と。苛立ちと共に顔を上げれば、悲しそうな夕貴の眼差しに戸惑った。
「僕はね、託と穂乃香ちゃんの関係が羨ましかったんだ」
そっと、夕貴が言った。
「託が穂乃香ちゃんを全力で守ろうとしてて、穂乃香ちゃんはいつも託のことを考えている。何があっても二人は互いを信頼してる。そう見えるんだよ。思うだ。僕と姉さんも、きっと二人みたいに支え合っていたら姉さんは病まなかったんじゃないかって」
「それは……」
「強制はしないよ。でも、このままでいいとも思えないんだよ。だから、話そうよ、もう一度」
夕貴は優しく諭すように言った。決して俺を断罪するつもりはなく、ただ、見ていられなくて、こうしてやり直すきっかけを与えにきてくれた。夕貴は優しすぎる。そんなところが少し、穂乃香と似ていた。
「夕貴。駄目なんだよ。話して解決する問題じゃないんだ」
「それでも、話さないと」
夕貴は知らない。知っているけど、知らない。俺が誰を好きになったのか。穂乃香が誰を好きになったのか。
「ありがとうな、夕貴。でも、ごめんな」
そう告げて俺は教室を後にした。後ろは振り返らなかった。もう引き返せない。後戻りはできない。話し合ったところで先は見えない。俺と穂乃香が兄妹である事実は覆らない。
一度調べてみたことがある。海外には同性婚が認められつつあるらしい。でも、血の繋がった兄妹での結婚はどこの国でも認められていない。あったといても、それはとても小さな世界の出来事。ここは日本で、誰もが認めない。それが全てだった。




