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ふれられないもの  作者: 柳
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決断ゆえに12

 

 目を覚ますと、ここ数日感じていた身体のだるさと頭痛が無くなっていた。まだ寝たりなく目蓋は多少重く感じるものの、それでも体は軽い。既に成瀬は起きているらしく、隣のベットは空になっていた。


 テーブルの上には(成瀬がしてくれたのだろう)充電器の刺さった俺の携帯と書置きがあった。起きたら一階まで、とのこと。時刻は六時半を少し過ぎていた。


 早々に身体を起こし、寝ていた布団を畳んで枕をその上に置いた。着替えをどうしようと部屋をぐるりと見渡してみれば、ドアのところに脱衣所で脱いだまま放置したはずの制服が掛かっていた。手に取ってみると洗濯したように綺麗な状態になっている。これも成瀬がやってくれたのだろう。感謝と申し訳なさを感じつつ制服に着替えて一階に降りた。


「おはよう」


 リビングに一歩足を踏み入れた瞬間、驚いて足が止まった。そんなわけがないと心の中で呟く。部屋も家具も空気すら違う。だから大丈夫なのだと言い聞かせ、恐る恐る顔を上げた。


「どうしたの?」


 そこには制服姿の成瀬が不思議そうな顔で俺を見ていた。


「……いや、なんでもない」

「そう?」

「ああ」

「ならいいけど。ほら、何時までもそんなとこに居ないで」


 成瀬は俺の背後に回り、ぐいぐいと背中を押しながらテーブルまで誘導した。四人掛けのテーブルに俺を座らせると、自分も正面に腰を下ろした。目の前にはこんがりと焼けた食パンが数枚と牛乳が用意されており、テーブルの中央には数種類のジャムが置いてあった。朝はパン派なのだと成瀬は言った。


「今日、学校には行くの?」


 二枚目となる食パンにたっぷりと苺ジャムを塗りながら成瀬は言った。


「……そうだな。行くかな」

「わかった。あと、これもおすすめだからね」


 と言って、見たことのないオレンジ色のジャムを手渡された。勧められるがままに蓋を開けてパンに塗ってみる。オレンジの果肉が入ったジャムは甘すぎず苦すぎず、素朴で爽やかな味だった。


 朝食を食べ終えた俺と成瀬は、一緒に学校へ向かった。いつもとは違う通学路。道路の幅も、すれ違う人も、景色も違う。隣を歩いている人も違う。途中に大きな犬が待っているということもない。視線が集まってくるということもない。それを新鮮だとは思わなかった。ただ、少しだけ寂しいと感じた。


 成瀬は遠慮がちに人ひとり分を空けて歩き、時折、思い出したかのように話題を振ってくれた。今日は天気がいいね、とか、今日の体育は長距離走なんだって、と。当たり障りなのない会話からも成瀬の気遣いが感じられた。


 学校に着いてからはずっと下を向いていた。自分の席に着いてからはただ窓の外を見ていた。周囲も雑音や話声から距離を置いていた。そんな風に時間が過ぎるのを待っていると、まっすぐこっちにやってくる攻撃的な足音を耳にした。


「何考えてんの!」


 怒気を含ませたその人は、おもむろに俺の胸元を掴んだ。首が締まって息苦しかったが、抵抗はしなかった。


「穂乃香ちゃんが今、どういう気持ちかわかってるの!」


 物凄い剣幕で詰め寄られる。これほど怒っている雪花を見たのは始めてだった。穂乃香のことでここまで真剣に怒ってくれる雪花はやっぱり穂乃香の友達で、頼もしい存在なのだと改めて思う。ただ、それを嬉しく思うのと、その感情に向き合えるのかは別問題だった。


「そっとしておいてくれないか」


 穂乃香が苦しんでいるのは知っている。戸惑っているのも知っている。夜、誰にも聞かれないように泣いているのも、知っている。だから、知りたくない。


「どうしちゃったのよ?」


 雪花は困惑するように言った。どんな事情があるにせよ、雪花は穂乃香の味方になってくれる。悲しませる存在が例え親交のある身内であっても手加減はない。


「ごめん」

「謝るなら穂乃香ちゃんにでしょ? 何考えてるのよ!」


 尋常ではない雪花の剣幕に、周囲のクラスメイトは距離を置き、遠巻きに見つめていた。


「佐藤さん、落ち着いてください」


 その中で一人だけ、滝椿が仲裁するように割って入った。少しでも場を収めようとしたのかもしれないが、それは逆効果となった。


「あんたは黙ってて!」


 雪花は滝椿にも牙を向けた。邪魔されたと思っているのか、俺に向けた以上の威圧感が言葉にあった。それでも、滝椿は一歩も怯むことなく、


「いえ、黙っていられません」


 と言い放ち、鋭い視線を真っ向から受け止めていた。睨みあう両者に割って入ろうとする人の気配はなく、当事者の俺ですら安易に立ち入れる雰囲気ではなくなっていた。


「私、会った時からあんたのこと信用してないの」


 雪花の視線は滝椿を嫌悪しているかのように見えた。


「どうしてですか?」

「あからさま過ぎるのよ。託さんと夕貴をいいように使って、穂乃香ちゃんに近づこうとしてた」

「そんなこと思っていないですよ。根拠もなく言わないでください」

「その口調も、あなたからは嘘しか感じられないのよ」


 怒りが収まらないのか、雪花は言葉の棘を滝椿に向け続けた。


「だいたい、託さんと夕貴が居なかったら、アンタなんて絶対近寄らせないんだから」

「誤解ですよ」

「その演技いい加減やめたら?」


 挑発的なその言葉に、終始、冷静だった滝椿の眉間に皺が寄った。


「演技ではありません。僕は託真君と夕貴君の友達です。それを雪花さんにとやかく言われる筋合いはないはずです。変な言い掛かりはやめてください」

「言い掛かりじゃない。現にあんたは私が居ない時を狙って穂乃香ちゃんに近付いてたじゃない」

「それも誤解です。狙っていたのではなく、たまたまそうなっているだけです。それに、どうして僕だけが穂乃香さんに話し掛けてはいけないのですか? 佐藤さんの許可がないといけないのでしょうか」

「そうよ」


 と、当然のように雪花が言うと、滝椿は隠そうともしない呆れた顔を向けた。


「それは些か独りよがりが過ぎます。あなたがそうやって穂乃香さんを縛るから、皆が距離を空けてしまうんですよ。それがよくないと何故わからないのですか」

「あんたに!」


 怒りに雪花の声が震えていた。


「何がわかるの! 何も知らない人が口を出さないで!」

「いいえ、黙っていられません。あなたが何を考えていようと、人を縛っていいわけがない」

「穂乃香ちゃんがどれだけ苦しんできたか知らないでしょ! 何度、な――」


 会話を中断するように俺は大きな音を出して立ち上がり、雪花に目を向けた。


「雪花。もういいだろ」


 いい加減、この無意味な言い争ういを止めるべきだと。


「いくらなんでも言い過ぎだ。滝椿はそんな奴じゃないよ」


 今の雪花は冷静ではない。感情に流されて、怒りを向ける相手を間違えている。それでも雪花は滝椿から視線を離さなかった。


「うまく取り込んだのね」

「酷い言い方ですね」


 もう一度、滝椿を睨み付けると雪花は教室を出て行った。後に残るのは張り詰めた空気と、集まる好奇な視線の数々。胃と頭が痛くなるような言い合いだった。


「大丈夫ですか?」


 滝椿はそっと俺の肩に手を乗せた。


「悪いな」

「佐藤さんは、何か勘違いしているようですね」

「そう、みたいだな」


 滝椿はいつも見せる完璧な笑みを向けた。


「穂乃香さんは僕に任せてください。安心してください」

「わかってる」

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