修学旅行とそれぞれの想い16
体の痛みで目覚めが覚めた。ぼんやりとした視線の先には白い天井が見える。それでここが医務室だということを思い出した。割り当てられた部屋の天井は確か薄い橙色をしていた。周囲に人の気配はなく、治療してくれたホテルの医師の姿も今は見当たらない。窓の外に目をやれば太陽は高い位置まで来ていた。
昨夜の暴行の後、朦朧としていた意識も時間と共に回復していった。歩けるようになるまではもう少し時間が必要だった。谷村と高橋の姿はとうになく、痛む体を引きずるようにしてホテルの中にある医務室へと足を向けた。
「大事に至らなくてよかったよ」
夜中に駆けつけてくれた担任はそう言ってくれた。怪我への説明は、足を滑らせて階段から落ちたのだと嘘を吐いた。その言葉を担任が信じたのはきっと、怪我の状態をよく知らなかったからだろう。落下して負った傷と、人工的に付けられた傷はだいぶ違う。医師は気付いていただろうけれど、何も言わなかった。
仮に、この怪我の原因が谷村によるものだと発覚すれば、少なからず騒ぎになっただろう。その結果、谷村が教師の職を失うなり、刑務所に送られるなり、悲惨な目に合ったとしても俺としては一向に構わない。当然の報いだと誰もが思うだろう。しかし、もしそうなっとしても、一つだけ変わらないことがある。谷村はそのことを決して忘れない。
逆恨みもいいところだが、そんな理屈が通じる相手ではない。腐った性根が暴走すれば、脅しが脅しでなくなる可能性がある。だから、俺は嘘を吐いた。谷村も、俺が告げ口しないと判断したからこそ暴力を振るった。酔った勢いの可能性もあるかもしれないが。
敵にすれば一番厄介な相手ではあるものの、考えていることは単純で読み易い。谷村の唯一の利点だと言える。あの時言っていた異動の話が本当であれば、こんな目はもう合うことはないだろう。今はそうなることを願いたい。
壁の時計を確認すれば十時を少し過ぎていた。予定通りなら帰りの新幹線に乗る時間。そっと体を起こして怪我の程度を確認してみる。痛みはあるものの、それ程酷い状態ではなかった。医師も打撲が酷いというくらいで骨に異常はない、と言っていた。
最後の一振り。谷村が俺を屈服させようとしたフルスイングは、結局当たることはなかった。興覚めだと言うように暴言を吐いて谷村は背を向けた。あの一撃があったのなら、今頃俺は病院にいただろう。そして谷村は警察の取り調べを受けていた。
ふと、ベットの下には昨日までは無かった俺のバックが置かれていた。部屋から持ってきたということは、それほど待たずとも帰れるのかもしれない。
バックの他にも棚の上には俺のスマホがあり、間隔を置いて上部が赤く点滅していた。手に取って画面を見れば、昨日の夜からの着信が溜まっていた。半分以上が穂乃香からだった。
姿がなければ心配になっただろう。一時間に何回も掛けてきているのが履歴に残っていた。無事だけでも伝えようか、とも思ったが、充電はあまり残されていなかった。そう急ぐこともないか、とスマホの画面を閉じる。と同時に、勢いよくドアが開く音が聞こえた。
「託真!」
乱暴なドアの開く音にも、俺を呼ぶ声の大きさにも身をすくませるほど驚かされたが、それよりも穂乃香がここにいることにまず驚いた。穂乃香は走ってきたように肩で息をしていて、入り口に立ったまま俺を見つめていた。
どうして穂乃香がまだここに残っているのだろうか。そう問い掛けるよりも早く、こちらへやってきた穂乃香はベットを超えて、俺の胸を抱くように背中に手をまわした。
迷いのない一連の動作に止める間はなく、俺は穂乃香を受け止めたまま固まっていた。動揺は隠せなかった。好きな人に抱きしめられて平気なわけがない。
「痛いよ、穂乃香」
それでも、僅かでも平静を保てていたのは痛みがあったから。放さない、とでも言うように、ぎゅっとしがみ付いていた穂乃香の身体が傷にふれる度に痛みが走る。俺の声が届いていないわけではないだろうに。胸に顔を埋めたまま、身体に回している手は一向に緩むことはない。いつもの穂乃香なら、自分の所為で痛みを与えていると知れば離れるだろうに、頑なに離れようとはしなかった。
「心配したんだよ」
穂乃香の声は震えていた。顔が見えないから気付くのが遅れたが、目元が赤くなっている。泣いていたのだろうか。俺が、穂乃香を泣かせたのだろう。
「ごめん」
そう言って穂乃香の頭を撫でる。穂乃香の身体は小さく震えていた。
「心配、したんだから」
「ごめん」
それからしばらくの間、穂乃香は俺から離れなかった。もし、少しでも力を緩めてしまったら、離れてしまえば何処かへ行ってしまうのではないか。そんな風に穂乃香は思っているのかもしれない。
怖かっただろう。俺の怪我の状態がどうであれ、不安はあったのだろう。もし、俺の怪我が命に関わるものだとしたら。また、あの時みたいに突然、家族を失うのではないか、と。そんな疑念が消えなかったのかしれない。
俺の痛みなんて、穂乃香の苦しみに比べたら軽いもの。だから、穂乃香が落ち着くまで、穂乃香の好きにさせた。
しばらくすれば、すすり泣く声も小さくなり、ようやく顔を上げてくれた。涙と鼻水で酷いことになっていた。
「託真が怪我して戻ってきた時、私……託真が、いないと私は――」
まだ、心までは落ち着いていないようで、伝えたい言葉だけが先に出てくる。心配をさせてしまった俺が出来ることは少なく、せめて顔を拭こうとポケットに手を入れものの、ハンカチの感触はなく、代わりに硬い感触が指にふれた。
形から何かは予想ついていたが、どうしてポケットに入っているかが思い出せない。過程がどうであれ、今持っていてよかったと思う。俺はポケットから四つ葉のキーホルダーを取り出して穂乃香に差し出した。
「心配させたお詫び」
キーホルダーを見た穂乃香は、僅かに目を見開いていた。
「どうして?」
「これ、見てただろ? 買っといたんだ。プレゼントするために」
そう言って手渡した。
「ありがとう」
サプライズが功を奏したらしく、泣き顔も笑顔に変わった。穂乃香は、手のひらの上のキーホルダーをしばらく眺めていた。その顔を見ていると俺まで嬉しくなった。むしろ、プレゼントされた穂乃香よりも嬉しいのかもしれない。
「託真」
穂乃香に呼ばれ返事をした次の瞬間、俺の身に何が起きたのかがわからなかった。それは一瞬の出来事。穂乃香は――俺に顔を近付け目を閉じると、そっとふれる程度に唇を重ねた。
動けなかった。途端に頭の中が真っ白になり、まるで時間が止まったかのように感じていた。
ゆっくりと唇を離した穂乃香の頬はほんのりと赤く染まり、恥じらうように視線をそらした。そんな穂乃香と唇をただただ見つめていた俺は、ようやく何が起こったのかを把握した。
実感はない。現実味もなかった。けれど漠然と、穂乃香の唇がふれたんだということを知った。今起きた出来事が信じられなくても、ふれた感覚だけが確かに唇に残っていた。
「これね、二つに別れるんだよ」
そう言ってキーホルダーの端と端を持ち軽く引っ張ると、四つ葉のクローバーは簡単に半分に別れ二葉になった。何故、という疑問がまず浮かんだ。
幸運の四葉のクローバーと呼ばれているからこそ価値があるだろうに、どうしてそれを壊す仕組みになっているのか。製作者の考えが理解できなかった。
その疑問を、嬉しそうにしている穂乃香の前で口に出していいのか迷っていると、二つに別れる仕組みの意味を穂乃香は教えてくれた。
「これを持っている二人が近くにいると、幸せになれるって言われているんだよ。ただの二葉でも、二人がいる限り幸せになれるって。素敵でしょ?」
言われて納得した。




