23話 タイムレースと植生遷移
「ザックダウン」
鬼登先輩の指示が飛び俺達は登山道の脇に避けて集積する。やばい。息が苦しい。喉がカラカラだ。俺は登山道の脇に座り込んで急いでザックの天蓋を開けて水筒を取り出す。こう言う手間がある分、水筒は不便利だ。切実にそれを思うのは登山中だ。集団行動をしている以上個人の私欲で部隊全体を止める事は出来るだけ避けたい。いや、緊急事態でも無い限りは止めてはいけない。
緊急事態とは言っても『靴紐が解けた』や『息が異常な上がり方をしている』などの安全上の理由であれば、隊列を止める事が出来る。何よりも安全第一なのは言うまでも無いだろう。
俺が水筒の水を口に含んで一服している時だった。鬼登先輩が後ろを振り返って言った。
「見とけよ。今からとんでもないモノをお前達は見る事になる」
「?」
俺は何となく分かっていた。鬼登先輩が何を見据えているのかを。
「「ファイトォォオ!!!」」
先程まで聞こえていた雄叫びはすぐ側にまで来ていた。振り返ったら殺される。そう思う程の気迫だった。そして、高校生達の姿が見えた。その姿は狂気としか言えなかった。
「……」
言葉が出なかった。休憩する俺達の目の前を通った先輩達は俺達に少し目をやったものの、すぐ様、遠くへと消えていった。俺達を睨んだ目は血走っており、部室で見た優しそうな目とはまるで別人であった。
次々と高校生の後続部隊が後ろから追い上げ、登山道を駆け抜ける。湯水の様な汗を垂らし、春にも関わらず身体から湯気を上げながら。
「先頭部隊は出発して十分って所か」
「え……!?」
横でポツリと呟き、手帳に何かをメモしている鬼登先輩の言葉を聞き取って俺は自分の耳を疑った。十分?俺達が死にそうな感じで三十分近くかけて登った場所を十分だと?休憩時間を含めると俺達がここまで辿り着くのに四十分近くかかっている。その為、俺は俄かには鬼登先輩の言葉を素直に信じられなかった。
「今のは高校生達のタイムレースだね。ただ普通の登山に於いては危険だから走るのは原則ダメだよ」
野原先生は涼しげな顔で、高校生達を見送って大きな声で俺達に聞こえる様に喋った。
そう言えば、高校生達は荷物の重量も俺達の二倍近くあった筈だ。それなのにあのスピードと体力……正直人間じゃない。あの悪路であれだけバランスを崩さずに走れるのもおかしい。俺は戦慄した。
「俺も来年からか、もう少し兜の尾を締めないとな」
鬼登先輩は、首と肩を回しザックの蓋を閉めて立ち上がる。
「多分、そろそろ休憩終わりだろ。ザックアップの準備はしとけよ?」
「はい。分かりました」
俺は色々思う事はあったものの、言葉が出なかった為、軽く会釈をしてザックの蓋を閉めてザックアップの準備を進めた。
「どんどん高校生の後続部隊が来るから、後続部隊が来た時は邪魔にならない様に登山道の脇に避けてね。その時の指示はこちらが出すからね。あと一分位でザックアップするから準備をよろしく。体調が悪くなった人とかは居ないかな?あと靴紐とかが解けてる人は今の内に結んでおいてね」
野原先生は腕時計の針をしばらく眺めた上で指示を出した。総計の休憩時間は十分に満たない。基本的に休憩時間は短めだ。二十分も三十分も休憩を取る事はまず無い。
「ザックアップ」
鬼登先輩の声で俺達はザックを持ち上げた。そして、前の休憩時と同じ様に隊列入れ替えを行った。因みに隊列も入れ替えをする事もあるが、部隊内の隊員の順番を入れ替える事もある。それをローテーションを組み替えると言う。そのままだ。これに至っては他のスポーツでもよく使われる言葉の為、登山常々と言うのはあまり関係が無い。
ローテーションの組み替えは基本的にその日の体調や体力の差があまり無さそうな時に頻繁に行ったりする。
トラバースを進んでいると、小さな谷を跨ぐ様に巨大な倒木が登山道を塞いでいた。危険だ。タイムレースを行っている先輩達はこの丸太すら走って越えて行ったのか……。俺はそう思いながら丸太を跨ぎ、飛び越えた。
左側からは曲がった木が登山道に侵入している所も多々あった。この様な曲がった木が出来る原因は主に冬場の積雪だ。雪の重しで時を重ねた結果、横に曲がったまま木が成長してしまったのだ。幸いこの曲がった木は人の背が届かない様な位置にある為、そこまで危険は無いものの、これが目の高さにあったならばかなり危険だ。
倒木などは山を管理する人や団体が定期的に切除したりする為、この木は最近倒れたと思われる。実際に初春までは雪が積もっていたりしたと思われる為、雪が溶け、地盤が緩くなっていた可能性も懸念出来た。
初春などに川を流れている水は雪解け水もかなりの割合を占めていた。比較的気温の暖かい木場山でも標高千三百メートル近くになる山頂付近はまだ少しだけ雪が積もっている。最近は気温が上がっている影響でスキーで有名な近場の山も雪不足に見舞われている位の為、この季節に低山で地面を覆う程の雪を見るのは中々難しいだろう。
川を跨ぐとその先には巨大な谷が俺達を待ち構えた。今俺達が跨いだ川は野智の滝の上流に位置している。川上の方には大きな尾根があり、その脇を水が流れているのが窺えた。
そして、谷に入る場所から針葉樹林がちらほらと目に入り始める。植生変化である。それと同時に俺達の目に入ったのは木に吊るされたカードである。坂道の登り始めから少し意図的にズラされた場所に、ピンク色のカードが吊るされていた。
そして、そのカードには『A』と大きな黒文字で記載されてあった。
タイムレースは通常登山では無いです。寧ろ危険なのでやめておきましょう。トレイルランとかとは違って重りを背負います。タイムレースは高校競技登山に関連する項目なのでここでは言及を避けます。
登山道は出来るだけ安全に配慮して歩きましょう。走るのは推奨しません。登山道の様な悪路の滑りにくい歩き方などは主人公達の目線に合わせて下り坂編で後述します。
植生変化……山では植物の群生している塊が突然変わる事があります。木場山は湖から陸地になった湿性遷移の設定です。太陽光の当たり具合や、種子の飛散、地盤の変化など複雑な要因が絡んだ結果ですね。




