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異界九重街  作者: 野蒜


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2/2

1話 ブルカニロ

意識がまどろむなか、痛みは甘美な余韻を残していた。


不思議なことに、彼の心は穏やかだった。


脳裏に浮かぶのは、あの異様な神社の風景。人形の揺れる音と、冷たい風の感触。けれど、肌を刺すような寒気はもうなかった。


「お願い、俺の、お願い」


誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。


そのとき、彼は目を開いた。


目に入ったのは、薄汚れた壁と、扉の立て付けが悪そうな古いタンスだった。どうやら、どこかの部屋らしい。


ここはどこだ。


そう思って辺りを見回そうとしたが、身体がひどくだるく、思うように動かない。


すると、額にひんやりとした感触があった。


湿ったタオルだった。


冷たくて、気持ちがいい。


彼は少しだけ視線を上げた。


そこには、カエルの顔をした、人間のようなものがいた。


白い顎ひげを蓄え、筋骨隆々の身体をしている。大きな顔が、彼を覗き込んでいた。


「おっ? 起きたか、坊主」


彼は驚きのあまり、疲れも忘れて飛び起きた。


そして、部屋の隅まで後ずさり、身体を縮こまらせながら、その異様な男を指差した。


「化け物!!」


カエル男は呆気にとられたように頭を掻き、ため息をついた。


「化け物って、結構な言い草じゃねぇか、お?」


額から落ちたタオルを拾い上げ、男が立ち上がる。


そのとき、天井の隅に設けられた神棚から、奇妙な音が聞こえてきた。


そこには、白いブリキでできた人形が置かれていた。人形は小刻みに震えながら、甲高い声を上げる。


「薄いよ!! 薄いよ!!」


「うるせぇ!!」


男が怒鳴ると、人形はぴたりと黙った。


男は気だるそうに彼へ向き直ると、壁に掛けられた法被を羽織った。


紺色の生地には白い波模様が描かれ、背中には「海老屋」の文字。赤い海老の絵は、擦り切れてかすれていた。


男は腹に巻いた晒を締め直しながら、彼の前に腰を下ろした。


「坊主……おらぁ、ブルカニロってんだ。覚えろよ?」


そう言って、彼の頭をぽんと撫でた。


「お前は? 坊主。見たところ、人だよな」


問われた彼は、悲しそうに俯いた。


答えようとしたが、言葉が出てこない。


やがて、彼は口を閉ざしてしまった。


ブルカニロはしばらく黙っていたが、やがて面倒くさそうに頭を掻いた。


「何があったんだ? 俺しかいねぇんだ、言ってみろ」


乱暴な言い回しだった。


それでも、不思議と突き放すような響きはなかった。


彼は少しずつ、身の上を話し始めた。


母親のこと。家のこと。帰ってこない日々のこと。殴られたこと。痛かったこと。


話しているうちに、自分でも何を話しているのか分からなくなった。


それでもブルカニロは、口を挟まずに聞いていた。


時折、深く頷く。拳を固く握りしめることもあった。


彼にとって、それは初めての会話だった。


母親や、その連れの男たちから暴力を受ける以外で、誰かとまともに言葉を交わしたことなどなかった。


話し終えてみれば、ひどく短いものだった。


思い出と呼ぶには、あまりにも残酷で、あまりにも短い。


彼の人生には、語るほどのものすらなかった。


ブルカニロは、しばらく黙っていた。


そして、ようやく小さく呟いた。


「辛かったな」


その一言だった。


それだけで、彼の目から涙が溢れた。


自分でも、なぜ泣いているのか分からなかった。


親の前で泣けば殴られた。だから、涙が出ると反射的に拭おうとした。


何度も、何度も。


そんな彼の頭を、ブルカニロが掴んだ。


乱暴に見える仕草だったが、力は優しかった。


そのまま自分の法被へと、彼の顔を押し付ける。


「いいんだよ。泣いて喚け。今のお前には、それが必要だ」


彼は顔を上げられなかった。


泣いてもいい。


そう言われたことが、なかったからだ。


自分は辛かったのだ。


悲しかったのだ。


愛されたかったのだ。


ようやく、それが分かった。


一度溢れ出した涙は、もう止まらなかった。


彼はブルカニロの法被を濡らしながら、すがるように泣きわめいた。


ブルカニロは何も言わず、ただ頭を撫で続けていた。


どれほど泣いたのか、彼には分からなかった。


やがて落ち着くと、彼は恐る恐る顔を上げた。


改めて見るブルカニロの顔は、やはりカエルだった。


けれど、不思議ともう怖くはなかった。


この人なら、自分を助けてくれる。


そんな気がした。


「なあ……」


彼は鼻をすすりながら、口を開いた。


「俺、名前がないんだ」


ブルカニロは少し考えた。


「名前がねぇのか。そりゃ不便だな」


そう言って、彼の顔を眺める。


「じゃあ、ナナシでいいだろ。名前がねぇんじゃ呼びづれぇしな。思いついたら、改めて考えりゃいい」


彼は目を丸くした。


そして、何度か口の中でその言葉を繰り返した。


ナナシ。


ナナシ。


やがて、彼は顔を輝かせた。


「ナナシでいい! 俺の名前だ! やった!!」


ブルカニロは、しまったという顔をした。


今さら適当につけた名前だとは言えない。


「お、おう……そうかよ」


頭を掻きながら、困ったように鼻を鳴らす。


けれど、目の前の少年が、ついさっきまで泣いていたのが嘘のように笑っているのを見て、つられるように笑った。


「しばらく、ここにいていいぞ」


ブルカニロはそう言ってから、指を一本立てた。


「ただし、仕事もするんだぞ」


「おう! カエルのおっさん!!」


「ブルカニロだ!!」


怒鳴り声が部屋に響いた。


それから、ブルカニロはナナシを布団に押し込んだ。


「まったく……今日は休め。顔色が悪ぃんだからよ」


枕元には、海老出汁のお粥が置かれた。


湯気が立ち上り、食欲をそそる匂いが鼻をくすぐる。


ナナシはそれを見つめた。


食べていいのだろうか。


そんなことを考えていると、ブルカニロはさっさと部屋を出ていった。


扉が閉まる。


ナナシは、しばらくその音を聞いていた。


それから、お粥に手を伸ばした。


温かかった。


⸻


「はぁ……無視はできねぇだろ、あんなのよ」


部屋を出たブルカニロは、ぶつぶつと呟きながら昇降機へ向かった。


ブリキ製の箱のような昇降機に乗り込み、壁に並んだボタンのうち、数字の「1」を押す。


扉が閉まると、機械が唸り声を上げた。


ごとん、と大きく揺れ、昇降機が動き始める。


壁の向こうから、蒸気の噴き出す音が響いた。


この街では、どこへ行っても似たような音がする。


やかんが沸騰するような音。金属が軋む音。歯車が噛み合い、蒸気が吐き出される音。


昇降機は蒸気圧を利用して動いている。


この街の人々は、そんな音にすっかり慣れきっていた。わざわざ気に留める者など、ほとんどいない。


しばらくして、昇降機が止まった。


扉が開く。


目の前には、「武蔵」と大きく書かれたネオン看板が怪しく光っていた。


そこは武蔵自治区。


視界の隅々まで、建物がひしめき合っていた。


腐った木材と錆びた金属を継ぎ接ぎしたような建物が折り重なり、壁から突き出た配管からは白い蒸気が噴き出している。


狭い路地には人が溢れ、頭上では機械仕掛けの乗り物がレールを走っていた。


どこかで誰かが怒鳴り、別の場所では笑い声が響く。


赤い提灯の明かりが、薄汚れた壁と黒ずんだ汚水を照らしていた。


ブルカニロは慣れた足取りで歩き出した。


やがて、一軒の店の前で足を止める。


看板には、機械仕掛けの海老が描かれていた。ブリキの脚をぎこちなく動かし、客を呼び込むように鋏を振っている。


その下には、海老屋の文字。


ブルカニロが店先に立つと、あちこちから声が飛んできた。


「よっ! 海老屋のブルカニロ!」


「今度、ネジ屋に口利きしておくれよ!」


「この前、イカサマしやがったろ!」


ブルカニロは手を振ったり、適当に返事をしたりしながら、それらを軽く受け流した。


いつものことだった。


そのとき、幼い声が彼を呼び止めた。


「師匠!」


「あ? ウェイか。どうした」


振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。


サウナハットを被り、煤けたボロボロのパーカーを着ている。足元では草鞋がぱたぱたと鳴っていた。


東洋人を思わせる顔立ちに、少々きつい目つき。まだ幼いながらも、整った顔をしている。


少女――ウェイは、腰に手を当ててふんぞり返った。


「私、見たの! 子供を抱えたブルカニロ師匠を!」


「そうかそうか」


ブルカニロは、さして興味もなさそうに答えた。


だが、ウェイは引き下がらない。


「誰なの、師匠! 新しい弟子なの!? どうなの!?」


言いながら、ブルカニロのふくらはぎを蹴飛ばした。


「あだっ! お前、そこを蹴るんじゃねぇ!」


「誰なのよ!」


「分かった、分かった! 弟子だよ、弟子!」


その瞬間、ウェイの顔がぱっと明るくなった。


「やった! 私の弟じゃん! やった! やった!」


そう叫ぶと、彼女はどこかへ走り去ってしまった。


ブルカニロは、その背中を呆れたように見送った。


「なんなんだ、あいつは……」


そう呟きながらも、口元には笑みが浮かんでいた。


「ま、どうなんだかなぁ……はぁ。仕事すっか」


ブルカニロは暖簾をくぐった。


海老屋の店先で、ブリキの海老がぎこちなく鋏を動かしていた。

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