1話 ブルカニロ
意識がまどろむなか、痛みは甘美な余韻を残していた。
不思議なことに、彼の心は穏やかだった。
脳裏に浮かぶのは、あの異様な神社の風景。人形の揺れる音と、冷たい風の感触。けれど、肌を刺すような寒気はもうなかった。
「お願い、俺の、お願い」
誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。
そのとき、彼は目を開いた。
目に入ったのは、薄汚れた壁と、扉の立て付けが悪そうな古いタンスだった。どうやら、どこかの部屋らしい。
ここはどこだ。
そう思って辺りを見回そうとしたが、身体がひどくだるく、思うように動かない。
すると、額にひんやりとした感触があった。
湿ったタオルだった。
冷たくて、気持ちがいい。
彼は少しだけ視線を上げた。
そこには、カエルの顔をした、人間のようなものがいた。
白い顎ひげを蓄え、筋骨隆々の身体をしている。大きな顔が、彼を覗き込んでいた。
「おっ? 起きたか、坊主」
彼は驚きのあまり、疲れも忘れて飛び起きた。
そして、部屋の隅まで後ずさり、身体を縮こまらせながら、その異様な男を指差した。
「化け物!!」
カエル男は呆気にとられたように頭を掻き、ため息をついた。
「化け物って、結構な言い草じゃねぇか、お?」
額から落ちたタオルを拾い上げ、男が立ち上がる。
そのとき、天井の隅に設けられた神棚から、奇妙な音が聞こえてきた。
そこには、白いブリキでできた人形が置かれていた。人形は小刻みに震えながら、甲高い声を上げる。
「薄いよ!! 薄いよ!!」
「うるせぇ!!」
男が怒鳴ると、人形はぴたりと黙った。
男は気だるそうに彼へ向き直ると、壁に掛けられた法被を羽織った。
紺色の生地には白い波模様が描かれ、背中には「海老屋」の文字。赤い海老の絵は、擦り切れてかすれていた。
男は腹に巻いた晒を締め直しながら、彼の前に腰を下ろした。
「坊主……おらぁ、ブルカニロってんだ。覚えろよ?」
そう言って、彼の頭をぽんと撫でた。
「お前は? 坊主。見たところ、人だよな」
問われた彼は、悲しそうに俯いた。
答えようとしたが、言葉が出てこない。
やがて、彼は口を閉ざしてしまった。
ブルカニロはしばらく黙っていたが、やがて面倒くさそうに頭を掻いた。
「何があったんだ? 俺しかいねぇんだ、言ってみろ」
乱暴な言い回しだった。
それでも、不思議と突き放すような響きはなかった。
彼は少しずつ、身の上を話し始めた。
母親のこと。家のこと。帰ってこない日々のこと。殴られたこと。痛かったこと。
話しているうちに、自分でも何を話しているのか分からなくなった。
それでもブルカニロは、口を挟まずに聞いていた。
時折、深く頷く。拳を固く握りしめることもあった。
彼にとって、それは初めての会話だった。
母親や、その連れの男たちから暴力を受ける以外で、誰かとまともに言葉を交わしたことなどなかった。
話し終えてみれば、ひどく短いものだった。
思い出と呼ぶには、あまりにも残酷で、あまりにも短い。
彼の人生には、語るほどのものすらなかった。
ブルカニロは、しばらく黙っていた。
そして、ようやく小さく呟いた。
「辛かったな」
その一言だった。
それだけで、彼の目から涙が溢れた。
自分でも、なぜ泣いているのか分からなかった。
親の前で泣けば殴られた。だから、涙が出ると反射的に拭おうとした。
何度も、何度も。
そんな彼の頭を、ブルカニロが掴んだ。
乱暴に見える仕草だったが、力は優しかった。
そのまま自分の法被へと、彼の顔を押し付ける。
「いいんだよ。泣いて喚け。今のお前には、それが必要だ」
彼は顔を上げられなかった。
泣いてもいい。
そう言われたことが、なかったからだ。
自分は辛かったのだ。
悲しかったのだ。
愛されたかったのだ。
ようやく、それが分かった。
一度溢れ出した涙は、もう止まらなかった。
彼はブルカニロの法被を濡らしながら、すがるように泣きわめいた。
ブルカニロは何も言わず、ただ頭を撫で続けていた。
どれほど泣いたのか、彼には分からなかった。
やがて落ち着くと、彼は恐る恐る顔を上げた。
改めて見るブルカニロの顔は、やはりカエルだった。
けれど、不思議ともう怖くはなかった。
この人なら、自分を助けてくれる。
そんな気がした。
「なあ……」
彼は鼻をすすりながら、口を開いた。
「俺、名前がないんだ」
ブルカニロは少し考えた。
「名前がねぇのか。そりゃ不便だな」
そう言って、彼の顔を眺める。
「じゃあ、ナナシでいいだろ。名前がねぇんじゃ呼びづれぇしな。思いついたら、改めて考えりゃいい」
彼は目を丸くした。
そして、何度か口の中でその言葉を繰り返した。
ナナシ。
ナナシ。
やがて、彼は顔を輝かせた。
「ナナシでいい! 俺の名前だ! やった!!」
ブルカニロは、しまったという顔をした。
今さら適当につけた名前だとは言えない。
「お、おう……そうかよ」
頭を掻きながら、困ったように鼻を鳴らす。
けれど、目の前の少年が、ついさっきまで泣いていたのが嘘のように笑っているのを見て、つられるように笑った。
「しばらく、ここにいていいぞ」
ブルカニロはそう言ってから、指を一本立てた。
「ただし、仕事もするんだぞ」
「おう! カエルのおっさん!!」
「ブルカニロだ!!」
怒鳴り声が部屋に響いた。
それから、ブルカニロはナナシを布団に押し込んだ。
「まったく……今日は休め。顔色が悪ぃんだからよ」
枕元には、海老出汁のお粥が置かれた。
湯気が立ち上り、食欲をそそる匂いが鼻をくすぐる。
ナナシはそれを見つめた。
食べていいのだろうか。
そんなことを考えていると、ブルカニロはさっさと部屋を出ていった。
扉が閉まる。
ナナシは、しばらくその音を聞いていた。
それから、お粥に手を伸ばした。
温かかった。
⸻
「はぁ……無視はできねぇだろ、あんなのよ」
部屋を出たブルカニロは、ぶつぶつと呟きながら昇降機へ向かった。
ブリキ製の箱のような昇降機に乗り込み、壁に並んだボタンのうち、数字の「1」を押す。
扉が閉まると、機械が唸り声を上げた。
ごとん、と大きく揺れ、昇降機が動き始める。
壁の向こうから、蒸気の噴き出す音が響いた。
この街では、どこへ行っても似たような音がする。
やかんが沸騰するような音。金属が軋む音。歯車が噛み合い、蒸気が吐き出される音。
昇降機は蒸気圧を利用して動いている。
この街の人々は、そんな音にすっかり慣れきっていた。わざわざ気に留める者など、ほとんどいない。
しばらくして、昇降機が止まった。
扉が開く。
目の前には、「武蔵」と大きく書かれたネオン看板が怪しく光っていた。
そこは武蔵自治区。
視界の隅々まで、建物がひしめき合っていた。
腐った木材と錆びた金属を継ぎ接ぎしたような建物が折り重なり、壁から突き出た配管からは白い蒸気が噴き出している。
狭い路地には人が溢れ、頭上では機械仕掛けの乗り物がレールを走っていた。
どこかで誰かが怒鳴り、別の場所では笑い声が響く。
赤い提灯の明かりが、薄汚れた壁と黒ずんだ汚水を照らしていた。
ブルカニロは慣れた足取りで歩き出した。
やがて、一軒の店の前で足を止める。
看板には、機械仕掛けの海老が描かれていた。ブリキの脚をぎこちなく動かし、客を呼び込むように鋏を振っている。
その下には、海老屋の文字。
ブルカニロが店先に立つと、あちこちから声が飛んできた。
「よっ! 海老屋のブルカニロ!」
「今度、ネジ屋に口利きしておくれよ!」
「この前、イカサマしやがったろ!」
ブルカニロは手を振ったり、適当に返事をしたりしながら、それらを軽く受け流した。
いつものことだった。
そのとき、幼い声が彼を呼び止めた。
「師匠!」
「あ? ウェイか。どうした」
振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
サウナハットを被り、煤けたボロボロのパーカーを着ている。足元では草鞋がぱたぱたと鳴っていた。
東洋人を思わせる顔立ちに、少々きつい目つき。まだ幼いながらも、整った顔をしている。
少女――ウェイは、腰に手を当ててふんぞり返った。
「私、見たの! 子供を抱えたブルカニロ師匠を!」
「そうかそうか」
ブルカニロは、さして興味もなさそうに答えた。
だが、ウェイは引き下がらない。
「誰なの、師匠! 新しい弟子なの!? どうなの!?」
言いながら、ブルカニロのふくらはぎを蹴飛ばした。
「あだっ! お前、そこを蹴るんじゃねぇ!」
「誰なのよ!」
「分かった、分かった! 弟子だよ、弟子!」
その瞬間、ウェイの顔がぱっと明るくなった。
「やった! 私の弟じゃん! やった! やった!」
そう叫ぶと、彼女はどこかへ走り去ってしまった。
ブルカニロは、その背中を呆れたように見送った。
「なんなんだ、あいつは……」
そう呟きながらも、口元には笑みが浮かんでいた。
「ま、どうなんだかなぁ……はぁ。仕事すっか」
ブルカニロは暖簾をくぐった。
海老屋の店先で、ブリキの海老がぎこちなく鋏を動かしていた。




