プロローグ 九重街
空を見たことがなかった、もちろん、友達もいなかった。
名のない彼にとって、世界とはテレビに映し出された虚像にすぎなかった。
畳はどす黒く汚れ、床にはゴミが散乱している、腐った生ごみには、いつもハエがたかっていた。
幼い彼は、そんな鳥籠のような小さな部屋で暮らしていた。
身体中にある痣や切り傷をさすりながら、泣いて過ごす毎日だった。
たまに帰ってくる母親は、毎度違う男を連れていた。
母親は男と一緒になって彼を殴った。理由があるときもあれば、ないときもあった。
彼には、何が悪いのか分からなかった。
ただ、痛かった。
「母ちゃん」
冬だった。
誰もいない部屋で、彼は小さく呟いた。
自分が何歳なのかすら分からない。
もう半月は、誰も帰ってきていなかった。
腹が減っていた、寒かったら身体のあちこちが痛んだ。
それでも、彼は母親が帰ってくるのを待っていた。
そんなとき、つけっぱなしのテレビに映像が流れた。
寒空の下、鳥居の前には長蛇の列ができていた。人々は手を合わせ、頭を下げている。
次の年こそは、いい年になりますように。
みな、それぞれの願いを胸に、鳥居の先にいる何かへ祈っていた。
彼は、その光景をじっと見つめた。
祈れば、きっと何かが変わるのかもしれない。
そう思った。
彼は立ち上がった、冷え切った身体を引きずり、玄関へ向かう。
外に出たことなど、ほとんどなかった。
それでも彼は、扉を開けた。
冷たい空気が容赦なく身体を刺し、裸足の足元から冷えが這い上がり、歯がかちかちと鳴った。
それでも、彼は走った。
テレビで見た、あの鳥居を探して。
時刻はとうに午前零時を過ぎていた。
街に人影はなく、街灯の明かりだけが、見慣れない夜道をぼんやりと照らしている。
鳥居さえ見つければ。
鳥居さえ見つければ、きっと。
彼は祈るような気持ちで、暗い街を走り続けた。
やがて、鳥居が見えた。
彼は足を止めた。
鳥居には、数え切れないほどの人形や風鈴がぶら下がっていた。小さな境内にも、麻紐で吊るされた人形があちらこちらに揺れている。見たこともないブリキの人形まであった。
風が吹くたび、乾いた音が鳴った。
ちりん、ちりん。
人形同士が擦れ合う音が、夜の境内に響いていた。
彼は、その場から動けなくなった。
それでも、ほかに行くところなどなかった。
賽銭箱の前にうずくまり、彼は両手を合わせた。
テレビで見た人々の真似をするように、ぎこちなく手を擦り合わせる。
何を願えばいいのか、分からなかった。
ただ、このままの暮らしが終わってほしかった。
母親に殴られない場所へ行きたかった。
温かいものが食べたかった。
誰かに、そばにいてほしかった。
けれど、彼は何ひとつ言葉にできなかった。
ただ、目を閉じて祈った。
何も起こらなかった。
木々の間を冷たい風が抜けていく。人形が揺れ、乾いた音を立てる。
それは、まるで誰かが笑っているようだった。
「あんまりだ」
彼は力なく呟いた。
それから、最後の力を振り絞って立ち上がると、本坪鈴の綱を握り、何度も鳴らした。
鈴の音が、夜空に響いた。
彼は顔を上げた。
空を見たかった。
ただ、それだけだった。
そのときだった。
視界が暗くなった。
寒さが消えた。
何が起きたのか分からず、彼は辺りを見回した。
何も見えなかった。
一寸先どころか、自分の手すら見えない。上も下も、右も左も分からなくなった。
音すらなかった。
しばらくして、頭が割れるような激痛が走った。
次いで、全身を焼かれるような熱が襲った。
彼は叫ぼうとした。
けれど、声は出なかった。
身体を丸め、感覚だけを頼りに耐え続ける。痛みから逃げることも、助けを呼ぶこともできなかった。
どれほどの時間が経ったのか、分からない。
やがて、遠くから音楽が聞こえてきた。
ざらざらとしたノイズの向こうで、オルガンがゆっくりと旋律を奏でている。
どこか懐かしい音だった。
何が懐かしいのかは分からない。それでも、彼はその音にすがった。
音のする方へ、這うように進む。
すると、少しずつ感覚が戻ってきた。
耳に飛び込んできたのは、やかんが沸騰するような音、人々の喧騒、そして、電車が走るときのようなレールの軋みだった。
彼は目を開けようとした。
しかし、その前に意識が途切れた。
彼は、鳥居の前に倒れていた。
その半分が油で淀み、ぼこぼこと沸き立つ泥のような汚水に、今にも沈みそうになりながら。
そこは、彼の知る神社とは似ても似つかない場所だった。
見上げれば、街があった。
いや、街は上にあるだけではなかった。
無限にうねり、折り重なり、上と下の境目さえ疑わしくなるほどの建物が、視界の果てまで続いていた。
建物からは蒸気が噴き出し、露出した機械が火花を散らしている。壁や地面には無数のレールが走り、その上を、見たこともない乗り物が轟音を立てて行き交っていた。
赤い提灯が揺れている。
煤けた壁には、読めない文字の看板がいくつも掲げられていた。
民家も、飲食店も、何に使うのか分からない建物も、隙間なくひしめき合っている。
街のどこかで、また蒸気が噴き上がった。
人々の声が聞こえた。
鉄の軋む音が響いた。
そのすべてが、彼の知る世界には存在しないものだった。
彼は、薄れゆく意識のなかで、目の前にある朽ちかけた看板を見つめた。
そこには、こう書かれていた。
九重街。




