リハーサルと猫
二月の宮崎は、梅が咲き始めていた。
事務所の裏の公園には梅の木はないが、湊が朝自転車で通る道沿いに一本だけ白梅があって、つぼみが膨らんでいるのが見えた。冬の終わりと春の始まりが、数日のうちに入れ替わろうとしている。
コラボ配信の二日前。リハーサルの夜。
瀬川 湊は事務所で、白石 楓の自宅とゆきねの自宅をDiscordで繋ぐ準備をしていた。三者通話。楓がみやびの声で、ゆきねがゆきねの声で、初めて会話する。
「楓さん、OBSの画面共有お願いします。レイアウト確認したいので」
「はい。——映ってますか?」
楓の配信画面が湊のモニターに表示された。みやびのアバターが画面の左半分に配置されている。右半分は空白。ゆきねのアバターが入る場所だ。
「大丈夫です。じゃあ、ゆきねさんを通話に招待しますね」
湊がDiscordの招待リンクを送った。数秒後、通知音が鳴った。
「こんばんは! ゆきねです。よろしくお願いしまーす!」
明るい声だった。楓の声——みやびの声とは全然違うトーンだ。テンポが速くて、語尾が跳ねる。猫のアバターらしい、軽やかな印象。
『こんばんは。みやびです。はじめまして……ちょっと緊張してます』
みやびの和風口調が、ゆきねの元気な声と並ぶ。対比が面白い。
「えっ、みやびさんの声すごい! 配信で聴くより生のほうが綺麗!」
『ありがとう。ゆきねさんの声も——元気で、聞いてるだけで明るくなりますね』
「やだ照れる。あ、私のアバター映りますか? 画面共有——」
「ゆきねさん、湊です。技術担当です。画面の確認は俺のほうでやりますね。OBSのウィンドウキャプチャで——」
湊がゆきねの配信画面をキャプチャする設定を案内した。ゆきねの自宅のPC環境は、楓と同等のスペックだ。個人勢VTuberのスタンダードな構成。設定は問題なくできた。
レイアウトが完成した。左半分にみやびの狐、右半分にゆきねの白猫。和風と洋風が並ぶ画面。
「かわいい。猫と狐の並びいいですね」
ゆきねの声が弾んだ。
「ほんとだ。なんかジブリっぽい」
湊もつい口に出していた。
『ふふ、化かし合いになりそうね。猫と狐だから』
「あはは! みやびさん面白い!」
湊はモニターの前で、二人の掛け合いを聞いていた。楓の声——みやびの声が、ゆきねとの会話で少しずつ柔らかくなっていく。最初の緊張が、会話を重ねるたびに解けていく。
楓はやっぱり、人と話すのがうまい。リスナーとのコメントのやり取りとは違う、リアルタイムの掛け合い。相手のテンポに合わせながら、自分のキャラを保つ。舞台の即興劇を七年間やってきた人間の底力だ。
「音声テスト、やりましょうか」
湊が切り出した。楽しそうに話している二人を遮るのは気が引けたが、リハーサルの目的は技術確認だ。
「はーい」
『お願いします』
湊は音声の遅延、音量バランス、マイクの位相干渉をチェックした。ゆきねのマイクはダイナミックマイクで、楓のコンデンサーマイクとは特性が違う。ゆきねの声が少しこもる傾向があったので、OBSのフィルターでEQを軽く調整した。
「ゆきねさん、もう一回『あいうえお』って言ってもらえますか」
「あいうえお!」
「もう少しマイクに近づいてもらえますか。十五センチくらい」
「これくらい? あいうえお!」
「それで大丈夫です。音量バランスも取れました」
『湊さん、さすがですね。音がクリアになった気がします』
「設定を変えただけですよ」
技術確認が終わった。リハーサルは三十分で完了。残りの時間は、二人が本番の内容を軽く打ち合わせた。
「推しポイント紹介の順番、どうしましょう。先にみやびさんから? それとも私から?」
『ゆきねさんからお願いしてもいいかしら。私——ゆきねさんの推しポイント、たくさんあるので、先に聞いたらお返しがしやすい』
「了解です! じゃあ私がみやびさんの推しポイントを話して、そのあとみやびさんが私のを話す。最後はお互いへの質問コーナー」
『いいですね。質問、何聞かれるか怖いけど——楽しみです』
「私も! あ、そうだ。当日はリスナーさんからの質問も拾っていいですか? コメント欄から」
『もちろん。お狐仲間にもゆきねさんを知ってもらいたいから』
「お狐仲間——みやびさんのリスナーさんの呼び名ですよね。かわいい名前。うちは『にゃんころ』って呼んでるんですけど」
『にゃんころ。猫らしくてかわいいですね』
二人の会話は、リハーサルというよりもう友達の会話に近くなっていた。桐谷 凛がDiscordのテキストチャットで「いい雰囲気だね」とメッセージを送ってきた。
リハーサルが終わり、ゆきねが「じゃあ土曜日よろしくお願いしまーす!」と明るく通話を切った。
楓——みやびの声から素の声に戻った楓が、Discordで湊に話しかけた。
「湊さん」
「はい」
「楽しかったです。ゆきねさん、本当にいい人で——話してて、すごく楽でした」
「楓さんの掛け合い、上手でしたよ。みやびのキャラを保ちながら、相手のテンポに合わせてた」
「そうですか? 途中から——みやびの口調が自分の言葉になってきて。演じてるっていうより、みやびとして話してる感じがしました」
湊はその言葉を聞いて、少しだけ口元が緩んだ。「演じてるっていうより、みやびとして話してる」。楓がずっと向き合ってきたこと——演じることと演じないことの境界——が、コラボという新しい場面で形になっている。
「本番も大丈夫そうですね」
「はい。——湊さん、音声の調整、ありがとうございました。ゆきねさんの声がクリアに聞こえたのは、湊さんのおかげです」
「仕事ですから」
「仕事じゃなくてもやってくれるでしょ。湊さんは」
楓が笑った。湊は答えなかった。
通話を切って、湊は事務所のモニターを見た。OBSのレイアウトが表示されている。左にみやびの狐、右にゆきねの白猫。二つのアバターが並ぶ画面。
みやびが初めて、事務所の外の世界に触れた夜だった。
楓にとっては——宮崎に来て以来、凛と湊以外の人間と「VTuberとして」会話した初めての経験だ。バイト先のおばちゃんでもなく、リスナーでもなく、同じ立場の同業者。
事務所の外には、人がいる。同じような規模で、同じように頑張っている人が。
湊はOBSのレイアウトを保存して、モニターを閉じた。窓を開けると、二月の夜風が入ってきた。一月よりも柔らかい風。どこか遠くで、梅の匂いがするような気がした。




