用事と本音
一月の終わりの寒い朝だった。
瀬川 湊が事務所に着いたのは十時。いつもより早い。外注の六件目の納品期限が明日で、最終チェックを済ませておきたかった。
事務所のドアを開けると、桐谷 凛がソファの上で眠っていた。
ソファといっても、凛が中古で買ってきた二人掛けの安いやつだ。凛はコートを掛け布団のようにかぶって、足を丸めて収まっている。テーブルの上に空の缶コーヒーが一つ。微糖。
湊はドアを静かに閉めた。靴を脱いで、足音を立てないように自分の席に向かう。凛のノートPCが開いたままで、画面はスリープになっている。凛のバッグが椅子の脚元に置いてあり、中から運動靴の紐が見えた。
昨日の夜、凛は「明日の朝はちょっと遅くなる」と言っていた。でも、事務所に泊まっていた。
昨日のイベント仕事が遅くまでかかって、事務所に寄って、そのまま寝てしまったのだろう。帰る体力が残っていなかった。
湊は暖房をつけた。エアコンの送風が凛の髪を揺らしたが、起きなかった。
モニターの電源を入れて、外注の最終チェックを始めた。リギングのパラメータを一つ一つ確認する。静かな作業だ。キーボードの音だけが六畳に響く。
三十分後、凛が身じろぎした。
「……ん」
目を開けて、天井を見た。それから湊を見た。
「あ」
「おはようございます」
「……おはよう。何時?」
「十時半です」
凛がソファに座り直した。コートが床に落ちた。寝癖がついた髪を手で押さえて、缶コーヒーに手を伸ばし——空だと気づいて、置いた。
「凛さん、泊まってたんですか」
「うん。昨日——用事が遅くなって。帰るのが面倒で」
「用事って——」
湊は一瞬迷った。言うかどうか。
知らないふりを続けるべきか。それとも——。
凛の顔色が悪かった。目の下にうっすらと隈がある。唇が乾いている。一月の朝の事務所で、ソファに丸まって寝ていた。二十五歳の社長が、自分の事務所で野宿している。
「凛さん」
「なに」
「イベント会社のバイト、いつから始めたんですか」
凛の表情が止まった。
三秒くらい、何も言わなかった。それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……知ってたんだ」
「靴を見てたら、なんとなく。あと——先月、ノートPCにメールの通知が出てました。偶然見えた」
「そっか」
凛はソファの背もたれに体を預けた。窓の外の冬の日差しが、凛の横顔を照らしている。疲れた顔だった。でも、隠す気がなくなった顔でもあった。
「十一月から。週二回くらい。イベントの設営と撤去。年末年始は忙しくて、週三、四回入ってた」
「体、大丈夫ですか」
「大丈夫だよ。事務所の仕事はちゃんとやってるでしょ? 配信の準備も営業も経理も、何も遅れてない」
「遅れてないけど——凛さんが寝不足で事務所に泊まってるのは、大丈夫じゃないと思います」
凛が黙った。湊の言葉が的を射ていた。
「……外注の売上が伸びてきたから、もう少ししたらバイトのシフトは減らすつもりだった。年末年始が特別に忙しかっただけで——」
「凛さん」
「なに」
「楓さんには話さないんですか」
凛の目が一瞬だけ鋭くなった。
「楓には——言わない。あの子は配信に集中してほしい。社長がバイトしてるって知ったら、楓は自分を責める」
「九月のとき、楓さんは『仲間はずれみたいで悔しい』って言ってましたよ」
凛がコートを拾い上げた。膝の上に置いて、裏地の糸くずを指で取った。何かをしていないと落ち着かないらしい。
「わかってる。わかってるんだけど——楓にはまだ早い。収益化が見えてきたら、そのとき話す」
「それ、九月に資金の件で言ったのと同じですよ。結局、楓さんが怒ったのは『隠してたこと』でした」
凛が湊を見た。湊は凛の視線を受け止めた。
長い沈黙があった。エアコンの送風音だけが聞こえる。
「……湊って、こういうとき鋭いよね」
「鋭くないです。九月に学んだだけです」
凛が少しだけ笑った。疲れた笑顔だった。
「今すぐは——無理。でも、近いうちに話す。約束する」
「わかりました」
「あと——湊にだけお願い。あたしがバイトしてるの、楓に言わないで。あたしの口から話したいから」
「言いません」
「ありがとう」
凛がソファから立ち上がった。伸びをして、洗面所で顔を洗いに行った。水の音が聞こえる。
湊は外注の最終チェックに戻った。指がキーボードの上で止まった。
凛は無理をしている。それは事実だ。でも、凛が「近いうちに話す」と言ったなら、それを信じて待つしかない。
洗面所から凛が戻ってきた。顔を洗って、少しだけ表情が明るくなっていた。
「湊、コンビニ行こう。朝ごはん食べてない」
「行きましょう」
「おごるよ。今月のバイト代、少し入ったから」
「バイト代でおごらないでください」
「いいじゃん。社長のおごり」
凛が先に靴を履いた。今日はスニーカーだ。つま先は綺麗だった。バイト用の運動靴は、バッグの中にある。
二人でコンビニに向かった。一月の宮崎の朝は冷え込むが、日差しが出ると肩の力が抜ける暖かさがある。どこかの家から味噌汁の匂いがした。凛がコートのポケットに手を突っ込んで、少し前を歩いている。
「ねえ湊」
「はい」
「ありがとね。気づいてて、黙っててくれて」
「黙ってたんじゃないです。待ってたんです」
「同じことでしょ」
「違います」
凛が振り返って笑った。今度は、疲れた笑顔じゃなかった。




