演じることと、演じないこと
十二月に入って、宮崎にも冬が来た。
とはいえ東京の冬とは違う。白石 楓のアパートの窓から見える空は、十二月でもどこか明るい。雲が高く、日差しに力がある。コートを着て外に出ると、風は冷たいのに陽のあたる場所はぽかぽかして、どこかから金木犀の残り香がふわりと鼻をかすめる。宮崎の冬はそういう冬だ。
楓はバイト先の飲食店から帰って、自宅のデスクに向かっていた。配信は夜だが、準備は午後から始める。今日の配信のテーマを考えながら、みやびのXアカウントで告知ポストの下書きを打っている。
半年前、凛に「投稿前に見せて」と言われていたのが、今は自分で書いて自分で投稿している。最初は凛のチェックを入れていたが、三回目くらいから「楓のまま出していいよ」と言われた。楓の言葉のほうが温度があると、凛は最初から気づいていたのだろう。
告知ポストを打ち終えて、投稿ボタンを押した。
「今夜8時から雑談配信します。12月に入ったので、冬の話をたくさんしたいです。お狐仲間のみなさんの冬の予定も教えてくださいね」
ポストの末尾に狐の絵文字をつけた。これも自然にやるようになった。最初は凛が入れていた絵文字を、楓が自分の手で入れるようになった。小さな変化だが、みやびが楓の一部になっていく過程の、目に見える部分だ。
デスクの隅に、段ボール箱が一つ置いてある。
東京から持ってきた荷物の中で、唯一開けていない箱。劇団時代の台本が詰まっている。引っ越しのとき「捨てよう」と思って、でも捨てられなくて、そのまま宮崎まで運んできた。
楓はその箱を見つめた。
七年間。高校を卒業して十八歳で小劇団に入って、二十五歳で辞めるまで。端役とアンサンブルを繰り返した七年間の台本。セリフに蛍光ペンで線を引いた跡が残っているはずだ。演出家のメモを書き込んだ余白。稽古場の匂いが染みついた紙。
楓はVTuberの応募フォームに書いた言葉を覚えている。
——もう一度、誰かの前で演じたい。
あのとき、その言葉は本音だった。舞台を失った楓にとって、演じることは唯一の自己表現だった。VTuberという新しい舞台で、もう一度「演じる自分」を取り戻す。それだけが、楓を動かしていた。
八ヶ月が経った今。
みやびを演じている。毎週三回、画面の向こうのお狐仲間に向けて、和風ミステリアスなみやびを演じている。
でも——「演じている」という感覚が、薄れてきた。
みやびのキャラは、楓が考えた通りに動かない。配信中に素が漏れる。宮崎牛を食べてキャラが崩壊する。怪談を語っているうちに本気で怖がる。リスナーのコメントに思わず笑って、みやびの上品な口調が飛ぶ。
最初はそれが怖かった。演者としてキャラを保てない——それは、失敗だ。劇団時代なら、演出家に叱られる。「キャラが崩れるな。感情を制御しろ」。七年間、そう言われ続けた。
でも、みやびの配信では——キャラが崩れる瞬間が、いちばんリスナーに届いていた。
コメント欄が沸く。Xで切り取られる。「みやびの素が出た瞬間が好き」「和風キャラなのにチキン南蛮好きなの最高」「みやび様の仮面が剥がれる瞬間が見たくて毎回来てる」。
仮面が剥がれる瞬間。
劇団時代は、仮面を保つことが求められた。演技力とは、仮面の精度だった。感情を制御し、キャラクターを完璧に演じ切ること。それが「いい役者」の条件だった。
みやびは違う。みやびの魅力は、仮面の隙間から漏れる楓自身にある。リスナーはみやびのキャラクターだけを見に来ているのではない。みやびの奥にいる楓を——楓の本音を——見に来ている。
それに気づいたとき、「もう一度演じたい」という言葉の意味が変わった。
劇団時代の「演じたい」は、完璧な仮面をかぶることだった。VTuberとしての「演じたい」は——仮面をかぶりながら、自分を見せること。演じることと、演じないことの、境界線の上に立つこと。
楓は段ボール箱に手を伸ばした。
——まだ開けない。
でも、いつか開ける日は来る。そのとき、箱の中の台本は「捨てられなかったもの」ではなく「手放さなかったもの」に変わる。
スマホが鳴った。桐谷 凛からのメッセージ。
「DTMerさんからオリジナル曲の初稿が届いたよ。楓に送るね」
音声ファイルが添付されていた。楓はイヤホンを耳に入れて、再生ボタンを押した。
ピアノのイントロが流れてきた。優しくて、少し寂しい旋律。歌い出しのメロディーラインが、楓の声域にぴったり合っている。凛が楓の歌枠のアーカイブをDTMerに渡して、声の特徴を伝えてくれたのだろう。
楓は目を閉じて聴いた。
歌詞はまだない。メロディーだけの音源。でも、その旋律の中に、みやびの輪郭が見えた。和風の静けさと、楓の温度が混ざった——みやびだけの音楽。
聴き終えて、凛に返信した。
「すごくいいです。この曲に、みやびの全部を詰め込みたい」
凛から返事が来た。
「歌詞は楓が書く? それともDTMerさんに任せる?」
楓は少し考えた。
「私が書きたいです」
「いいね。楓の言葉で」
楓はデスクに向き直った。配信の準備をしながら、頭の片隅で歌詞のことを考え始めている。
みやびの全部。
それは——楓の全部でもある。
段ボール箱はデスクの隅にある。まだ封は切っていない。でも、箱の存在を「見ないふり」しなくなったのは、いつからだろう。
楓は配信の準備を続けた。今夜もみやびになる。仮面をかぶって、でも——その仮面の隙間から、自分を見せる。
瀬川 湊が作ったアバターは、そういうふうにできている。楓の嘘を映さない。楓の本当を——映してしまう。
それが怖かった時期は、もう過ぎた。




