赤い薔薇に沈む
王妃なんて嫌とむくれたオンディーヌのせいで、ハンスが新たな王となり、シルフェリアは王妃となった。家名はハンスの名──ローゼンクロイツになった。
青の王と呼ばれるハンス一世の誕生である。
彼は恐怖政治の象徴である赤の王宮を塔を残して取り壊し、王宮を持たず生まれた屋敷で暮らした。
赤毛の王妃の誕生は人々に不安を抱かせたが、ハンスは彼女の誠実さを根気強く解いた。
シルフェリアは表に立つことなく、助言する役に徹した。だが、平民だったハンスは政務ができず、領土を広げるばかりの赤の王を支えていた臣下たちも生き残っていない。
国として成り立たなくなっている。
侵略されたら国は滅ぶ。
(お兄様が生きる国をみすみす誰かに奪わせてなるものですか…… )
シルフェリアは王妃として培ってきた教養をフル活用した。最初にしたのは、国防の強化。青の騎士団を国境に配置して守りを固めた。オンディーヌの力があれば、他国は攻めてこれない。
オンディーヌはぶつくさ文句を言っていたが、ブラントの説得により辺境へ行った。
国内からは身分を問わず優秀な人材を求めた。白、青、緑の国があった場所は自治権を認めた。これは結果として、身分制度を崩壊させ、農民の地位を向上すると共に、侵略された国からの反発をなくしていった。
シルフェリアは人の心が読める力を活用し、誰が何を求めるのか把握し与えた。お金がなければ金を黒い力で錬成し、財政を豊かにした。彼女は稀代の錬金術師と呼ばれ、崇拝されていった。
時は経ち──十三年後。
日の出前に起きたシルフェリアは、 けだるい体を引きずった。今日の予定を頭で考えながら、控えの部屋に入る。
扉を開くとむせかえるほど花の匂いがして、顔をしかめる。部屋は赤い薔薇で埋め尽くされていた。
「これは陛下から……?」
女官に聞くと彼女は微笑む。
「はい。昨晩のうちに用意するように言われておりました。妃殿下の赤で部屋を埋めて欲しいと。愛されておりますわね」
足の踏み場もないほど薔薇の花弁が散っている。これが愛の証か。数が異常だろう。
「掃除が大変そうね……」
ため息まじりで呟くと、女官はくすくす笑う。彼女の心の声が聞こえてきた。どうやら、夫の愛に恥じらっていると勘違いされているみたいだ。彼女の見えないところで口元を歪ませる。
(すっかり献身的な妻が板についたわね……)
無我夢中で駆け抜けて、ふと振り返ると虚しさが残る。五人できた息子は可愛いが、誰もあの人の器になれなかった。
ひとつため息を吐くと、ふらついた。妙に体が重い。薔薇の香りが鼻についてくらくらする。足に力をいれて、出てきた部屋の扉を睨む。まだ呑気に寝ているハンスに嘆息した。
十三年の月日は、この国を平和にしたが、ハンスを堕落させた。
今の彼には青の騎士としての面影はない。政務も臣下に任せっぱなしだ。
「子供も十二歳になりましたし、離宮に二人でこもりたいですね」というのが最近の彼の口ぐせだ。
なにを寝ぼけたことを?と思ったものである。人民の命を預かっているのだ。遊んでいる暇はない。
嫌そうな顔をすると、ハンスはとろけるような笑顔を見せる。
この男はいつもそうだ。こちらが邪険な態度をとっても、嬉しそうな顔ばかりする。
子供も産まれて赤の血は繋がったのだから、さっさと違う女にいけばいいものを。彼は執拗に自分だけを求めた。年々、執着ぶりはひどくなっている。
それはシルフェリアが若々しいままだったからかもしれない。自分だけが時を止めたように瑞々しい肌をして、彼には老いがみられた。
今日で五日目。
立て続けに寝室に通われ、疲れている。「陛下、今宵は……」と哀願してもあの男はきかない。嬉々と、自分を女にする。それが嫌でたまらない。
でも、一番嫌なのは彼に流されている自分だろう。
彼に抱かれるたびに、心臓は激しく脈打ち苦しくてしかたない。目尻に涙がたまり、生々しい声がでる。
なぜ、こんなことに。
彼は憎い男のはずなのに。
体が思い通りにならない。
十三年の時を経て、シルフェリアは魔女から、ただの女にされていた。
片付けられない床の赤薔薇を見てると、泣き叫びたくてしかたない。
結局自分は小さなシルフェリアのままで、誰かに依存しないと呼吸もできないのだろうか。
「お兄様……」
泣きそうな声でポツリと呟くと、背中を包み込まれた。
「私の姫。どうかしたのですか?」
背筋が凍った。シルフェリアはひきつりそうになる口元を引き結ぶ。
「……起きていらしたのですね……」
「少し前に」
短く答えた後、ハンスは自分の首もとに顔を埋めてくる。人前では、と言おうとして部屋に誰もいないことに気づいた。呆然として、女官がいなくなることにも気づかなかったのか。
「薔薇の贈り物、気に入りましたか?」
あらわになっている首筋に彼の吐息がかかり、不覚にもぴくっと体で答えてしまった。それでも声だけは冷ややかにだす。
「このように埋めなくても……少しだけで充分です」
彼は体重をのせて寄りかかってくる。重い。苦しい。
「私は好きですけどね。あなたの胎にいるみたいだ」
ぞっとした。この男は何を言っているのだろうか。
瞠目していると、彼の感情が頭に流れてきた。それは棘をもつ茨のようで脳に、体に、心臓に絡み付いてくる。
「姫、愛しています」
茨に拘束され動けずにいると、彼の手が顎にかかる。青い瞳は底知れぬ愛をむき出しにして、女に堕ちろと責める。
また流されるのか。
流され、魔女になれないまま自分は──
唇が触れそうになったとき、魔女であれと、心臓が大きく跳ねた。
全身に絡み付いた茨を振り払うように、暴れて彼の手から逃れる。
シルフェリアの赤い瞳は炎のように燃え盛り、全身からは黒いうねりがでてきた。
「わたくしは、愛しておりません!」
ハッキリと告げたというのに、ハンスは幸せそうにゆるんだ笑みをやめない。それどころか。
「私は愛しています。シルフェリア」
言われたことのない名前で呼ばれて、憎悪が体中を駆け巡った。彼に近づき、その首を両手で掴む。
「なら、ここで死んでください」
彼は答えない。されるがままだ。それに激昂して、シルフェリアの体からでた黒いうねりが彼の首にまとわりつく。締め上げ、その心臓をとめようとする。
ハンスは苦しそうに顔をしかめたが、抵抗しなかった。悔しくて勝手に涙が流れた。
「あなたはわたくしの夫を殺した! そんなあなたを許せるはずないでしょう! あなたを見ていると憎くて憎くて……」
ハンスの体がびくんと跳ねて、膝から崩れた。彼の口がわずかに動く。最期まで甘言をいう彼に答える。
「あなたは道具だった。お兄様を産み落とすための、道具だったのよ……」
声は聞こえなかったのだろう。彼は出会った日のときの純真な瞳をしていたから。
青の騎士は赤い薔薇の中に沈んで動かなくなった。
気がつけば、シルフェリアの赤い髪は生気が抜けたように白くなっていた。彼女はふらふらとした足取りで部屋の外にでる。
控えていた女官が慌てて近づいてきた。
「妃殿下……どうされ……」
開けっぱなしの扉の先を見て、女官が声を失う。体がぐらつき、シルフェリアは倒れた。
限界だった。
何も考えたくはなかった。
次に目覚めたとき、見えたのは息子たちの心配した顔。
「母上……」
耐えきれず泣き出す息子たちに囲まれる。その純真な涙はあの男の死を悲しんでいた。涙を見ていると、名前のつけられない感情がシルフェリアを包む。
愛憎しかなかった関係だったが、子供からみたら自分達は親だったのだろうか。
あの男は、時折、父親の顔をしていた。
娘が欲しいとぼやいていたが、娘なんていらないと突っぱねた。
あの人を殺した憎い男。なのに、胸がすく思いをしないのは、なぜだろう。あの男の死に目にはざまぁみろと、高笑いしてやるつもりだったのに。
声もでない。
シルフェリアは静かに目を閉じた。
ハンスの葬儀は厳粛に行われ、嫡男が国王となった。誰もシルフェリアがハンスを殺めたとは思わなかった。
シルフェリアの髪が真っ白になったのは、嘆きの深さからだと誤解されたのだ。
ただ、一人を覗いては──
「この魔女め! わたしの可愛いハンスを手にかけたな! 最初からお前は気にくわなかったのよ!」
ハンスの母オンディーヌだけは、シルフェリアの所業を見破っていた。




