⑨Revolution
「おやあ~? 今何かやったかい?」
大きく仰け反るシロを横目に、コガネムシは傷一つない背中をこれでもかと伸ばして見せる。涼しげな様子に怯むことなく、シロは左腕を引き、ビリヤードのキューのようにハサミを構えた。
「……〈ブランベルジュ〉の使い方は斬るだけじゃない」
肩ごと翼竜の嘴を突き出し、シロは正拳突きの要領で手首を捻る。空気を穿ち始めた途端、急速に渦を巻く切っ先――ただでさえ一点に力が集まる突きに回転を加え、硬い甲殻を抉り抜く作戦だ。
「フン!」
新弟子に胸でも貸す気なのか、コガネムシは億劫そうにふんぞり返り、飴色の毛が生えた胸を張る。
絶対の自信を物語る体勢が奏でたのは、鉄扉にカッターを突き立てたような金属音。鋼鉄の胸板に衝突した瞬間、直進一辺倒だったハサミが一瞬撓み、斜め下に墜落する。強か跳ね返されたシロは大きくよろめき、コガネムシの足下に膝を着いた。
「こんな『なまくら』にやられるとはねえ。あいつらのヤワさにも困ったもんだ」
溜息交じりにおねんね中の〈砂盗〉を見回し、コガネムシは無傷の胸を軽く払う。そうやって充分余裕を見せると、コガネムシは相撲で言う仕切りの体勢を取った。
「さあ、時間一杯だよ!」
スタートキックで深々と足場を抉り、コガネムシがシロに突っ掛ける。豪腕から繰り出された張り手が砂煙を粉砕し、シロの顔面に迫る。
手の平にキスでもするつもりか、迫り来る張り手を限界まで引き寄せ、引き寄せ、引き寄せ、シロは顔を右に傾ける。髑髏の鼻先を張り手が駆け抜け、風圧がシロの顔面を襲う。側頭部の穴から見える管が激しく軋み、三角形のバイザーが外れんばかりに戦慄く。
ガネェ! ガネェ! ガネェ!
執拗なコガネムシはすり足で獲物を追いながら、張り手を連射する。突っ張りの雨霰に晒されたシロは小刻みに後退し、命中が頭と胴体の別れを意味する強打を躱していく。
戦場が広大無辺な草原なら、張り手が当たる前にコガネムシの息が上がっていたかも知れない。だが不運なことに、シロが立っているのは狭い倉庫だ。限界まで歩幅を小さくしたところで、後退に使える面積には限りがある。
とん……。
張り手と仮面の追いかけっこが一分を超えようとした矢先、ついにシロの背中が壁とはち合わせる。逃げ場を失ったシロを見下ろすと、コガネムシはニヤリと口角を吊り上げた。真っ赤な眼球を凶暴に輝かせた巨体は、砲丸投げのように腕を振りかぶっていく。
「こいつが決まり手だ!」
猛々しく宣言し、コガネムシは一気に張り手を打ち下ろす。後退出来ないシロは咄嗟に膝を畳み、バッタのように地面を蹴る。瞬間、足首に備わった蕾がラッパのように膨らみ、地面に向けて圧縮空気を噴き出した。
入道雲のように白煙が膨張し、盛大にシロを打ち上げる。動体視力の限界を超えたスピードは、鮮明に見えていた骸骨を書き殴りの上昇線に変えた。
息つく間もなく、直前までシロの立っていた場所を張り手が貫く。極太の直線がコンクリの壁に突っ込み、恐竜の足跡そっくりの手形を刻む。
亀裂が走るより早く壁が砕け散り、拉げた鉄筋がコンクリの破片が外に雪崩れ込む。土石流まがいの轟音が響き渡り、チカチカ! とタニアの目の中に大量の火花が散る。頭蓋骨一杯に木霊した大音量が、脳神経をショートさせたのかも知れない。
「ちょこまかと!」
毒突いた途端、コガネムシの背中から機械的な駆動音が響きだす。
うぃぃぃん……。
コガネムシの肩胛骨から生え、背面に後光を作っていた突起が左右に分かれていく。重々しく分離を果たすと、二本の突起は先端のかぎ爪を開け閉めし始めた。ばちん、ばちんと大袈裟に音を鳴らす姿は、実に得意げだ。
硬い樹皮に食い込ますためか、所々に生えた鋭い棘――。
枝を接いだように角張った節――。
タニアの目に映るそれは、甲虫の前脚に他ならない。
ガネェ!
凶暴なおたけびが響き、高枝切りバサミのように前脚が伸びる。艶やかに光る節が荒々しく撓り、穂先のようなかぎ爪が空中のシロに迫る。
今まで的確に攻防を展開してきたシロは、だがこれと言った手を打たずに前脚を待つ。冷静なシロをもってしても、予想外の変形に混乱してしまったのだろうか。
「ぐっ!」
無防備なシロにかぎ爪が炸裂し、直撃を受けた胸当てから凄惨に火花が散る。かぎ爪はそのまま肋骨型の胸当てを咥え込み、落下中だったシロを梁の上まで吊り上げた。
ビュッ! と長ったらしい前脚が撓り、先端のシロを地面に叩き付ける。背中を強か打ち付けたシロは、一㍍近く弾み、メンコのようにひっくり返った。
シロが仰向けになった途端、間断なく全身を流れていた桜色が点滅を始める。
墜落の衝撃によって、〈発言力〉の循環を司る機器が故障してしまったのだろうか。いや、あまり考えたくないが、シロの側に原因がある可能性も捨てきれない。深刻なダメージを受けたせいで、骸骨の鎧に〈発言力〉を供給する余裕がなくなったのだ。
「こいつで真っ二つにならないとはね! 大した防御力だ! 私ほどじゃあないがね!」
ほぼ自賛の賞賛を終えたコガネムシは、左右の前脚を腕立て伏せのように配置する。
ぐぐっ……! と地面に着いたかぎ爪が踏ん張り、巨体を押し上げていく。ぷるぷると震える節が伸びきると、梁の上、夜空の下まで浮き上がったコガネムシがシロを見下ろした。
ガネェ!
かぎ爪が地面を蹴っ飛ばし、コガネムシがシロの頭上に飛ぶ。本体より一足お先に巨大な影が墜落し、シロの纏った蒼白の装甲を黒く塗り潰した。
「っ……!」
舌打ちとも息継ぎとも付かない音を漏らし、シロは俵のように転がり、転がり、転がる。ようやく影の外に出た髑髏を月光が漂白した――直後、カバ以上に安産型なコガネムシの尻が、地面を押し潰した。
大地を転覆させんばかりに衝撃が走り、津波のような砂塵が室内を浚う。鉄柱さえ軋ませる波頭はシロの身体を軽々巻き上げ、あまつさえ壁に投げ付けた。
空中で何回転かし、体勢を立て直したシロは、難なく壁に両足を着く。敏捷なシロは重力に働く暇を与えない。すかさず膝を縮め、水泳のキックターンさながら壁を蹴る。
滑空するツバメを思わせる鋭い筆致で、地面に蓋をしていく平行線――その正体が一直線にかっ飛ぶ髑髏だと断定する暇もなく、コガネムシの懐にシロが潜り込む。ハサミの切っ先が狙うのは、コガネムシの頭と胴体の繋ぎ目――本物の甲虫なら、外骨格の隙間から柔らかな肉が覗く部分だ。
シロの算段通り切っ先が喉笛を貫き、コガネムシが崩れ落ちる――。
タニアの期待とは裏腹、目に入ったのは今まで見て来た中で最も明るくない火花だった。
苛烈に突っ込んだシロがそのままの勢いで跳ね返され、中程から折れたハサミが宙を舞う。くるくると回る刃が壁に刺さると、コガネムシの足下にシロが落ちた。
「万策尽きたのかい?」
高笑いを上げ、コガネムシはシロの頭をドリブルする。加えて左右の前脚が大縄のように撓り、交互にシロの背中を打ち据えた。
シロの頭が繰り返し地面を転がり、髑髏の仮面を砂塗れにしていく。背中から絶え間なく迸る火花は、フラッシュのように室内を照らした。ごく短い間隔で視界が明滅する様子は、アイドルの結婚会見に他ならない。
自分はこんなところで何をやっているのか……!?
木製のバイクの後ろで、タニアは唇を噛み締める。
こうして安全地帯でじっとしていることが、歯痒くて仕方ない。
心の中で「頑張って」を連呼するのも、手に汗を握るのも、もうウンザリだ。これ以上、足蹴にされるシロを眺めているくらいなら、目玉をくり抜かれたほうがまだマシかも知れない。




