①微笑みの爆弾
今回は楼蘭の蘊蓄が登場します。
国語の授業で習った方も多いのでは。
お花畑が広がっていた。
若草色の茎が、パステルカラーの花々を戴冠している。鼻歌を口ずさみながら飛び回っているのは、ミツバチのような翅を生やした妖精さん。ミルクピッチャーを提げた彼等が顔の前を横切る度に、花蜜の甘い香りが鼻を擽っていく。
サラサラと涼しげな水音を漏らしているのは、地平線の手前を流れるせせらぎ。水晶のように透き通った水面は、楽しげに泳ぐ小魚たちを覗かせている。
清流の向こう岸は、「この世のものとは思えない」輝きに包まれていた。
川辺には頭に輪っかを乗っけたお子さんたちが集まり、盛んに手を振っている。無邪気で開放的な表情を見る限り、お玉の独裁下にあるこちら側より居心地がいいのは間違いない。
私も仲間に入れて~!
我慢出来なくなったタニアは大きく手を振り、一心不乱に川岸へ駆け寄る。
澄んだ川面に足を踏み入れた――瞬間、なぜか顔面に降り注ぐ冷たさ。
早朝の部屋にアラームが響いた時のように背中が跳ね上がり、痛みも苦しみもない楽園が遠ざかっていく。否応なく瞼を開くと、激烈な光がパノラマを埋め尽くした。
ぼやけていた景色が晴れるにつれて、視界の中央に砂漠の太陽が浮き上がっていく。比例して朧気だった触覚が甦ると、バーナーで焼かれたような熱が額に広がっていった。
「タニアさ~ん、起きてくださ~い。おねんねにはまだはえ~ですよ~」
大の字のタニアを覗き込み、シロは空になったペットボトルを引っ込める。
麦わら帽子の上から被ったほっかむりに、長袖長ズボンのジャージ――無論、日差しから肌を守るための装備だが、このフルアーマーっぷりならハチの巣にも対処出来そうだ。
一昔前の野球部員のごとく腰に縛り付けたロープは、重々しい砂嚢に繋いである。家を出て以来、シロは米袋と見紛うそれをずっと引きずってきた。にもかかわらず、首に巻いたタオルはほとんど湿っていない。呼吸にしろラジオ体操を終えた後より軽やかだ。
同じく砂嚢を引きずってきたタニアと言えば、サウナのオッサンに等しい有様。〈小詐校〉指定の体操着も首に巻いたタオルも、忙しく汗を垂らしている。砂、太陽、汗の三重苦によってすっかり潤いをなくしたポニテは、夏休み中放置されたヘチマのように萎びていた。
「ほら、ちゃっちゃと起きて。先はまだまだ長いんですよ」
シロ軍曹は平然と叱咤し、いつまでもおねんねしているタニア新兵の頬を叩く。
このままじゃ命がヤベぇ……! 確信したタニアは、残量一㌫を切った体力を振り絞り、渇いた……と言うか、ミイラ寸前の手を合わせる。
「きゅ、休憩させて……下さい」
「まだ三時間しか走ってませんよお」
現代っ子の体力のなさをディスり、軍曹殿は可愛らしく頬を膨らませる。
「さ、三時間も……だろぉ」
絞り出した途端、体力ゲージの横に点灯するエンプティマーク。ピーっと体内に心電図的な音が鳴り響き、タニアの意識を強制的にシャットダウンする。
暴虐的な陽光が遠ざかり、代わりに美しい光が広がっていく。
綺麗な川の向こう側では、頭に輪っかを乗せた一団が必死に声を張っていた。今度こそタニアを楽園に連れて行く気らしい。
「はいはい、そっちには行かない」
淡々と言い放ち、軍曹殿は新兵を担ぎ上げた。
二人分の砂嚢ごとタニアを引きずり、軍曹殿は路肩に停船中のボロ船に向かう。冷房の効いた船内では、他人事のメーちゃんがふれーふれーと翼を振っていた。
「ほら、水分摂って。水分さえ補給しときゃオールクリアです、たぶんね」
タニアをボロ船に寄り掛からせ、軍曹殿は甲板の水筒を指す。
「……今は水分よりあなたの思いやりが欲しい」
急き立てられるまま水筒を取り、タニアは顔面にスポーツドリンクをぶちまけた。魔法瓶謹製の冷たさが額に染み込み、熱暴走していた脳をクールダウンさせていく。つむじ辺りから蒸気が抜けると、ルーレットのようにグルグルしていた世界が、コーヒーにミルクを垂らした程度のグルグルになった。
「ささ! 飲み終わったら出発です!」
暑苦しく宣言し、鬼軍曹は行く手を指す。
砂に埋め尽くされ、象牙色に染まった天球の底を、乳白色の道路が貫いている。遠近法にダイエットさせられ、徐々に細くなっていくそれは、小指の幅より狭くなる距離まで延々と続いていた。
住宅地のように密集し、無数に立ち並ぶのは、風食の生んだはげ山ヤルダン。遠目には区別が付かないが、レンガ製の寺院跡も交じっているはずだ。
北方のクチャを中心とする亀茲、南方のホータン一帯を支配していた于闐と、西暦が三桁だった頃のタクラマカン砂漠には、仏教を崇拝する王国が幾つも存在していた。
中でも〈ロプノール〉の住民にとってなじみ深いのが、ロプ湖の辺で栄えていたとされる楼蘭だ。
数ある王国の中でも抜群に知名度の高い楼蘭だが、実のところ、どのように発祥したかは定かでない。中国北方の遊牧民族・匈奴の王が、漢の皇帝に送った手紙を見る限り、紀元前一七六年までに成立していたのは間違いないようだ。
ロプ湖自体は塩湖で、飲用や耕作には適さない。反面、湖に注ぐ孔雀河は真水で、楼蘭をオアシスとして繁栄させた。タクラマカン砂漠を進む隊商は、旅の途中で楼蘭に立ち寄り、水や食料を補給したと言う。
往事の楼蘭はホータン近くのニヤに栄えた精絶や、西南のチャルチャンに存在した且末など、複数の王国を支配するほどの勢力を誇っていた。
だが西暦四四五年、楼蘭は中国の王朝・北魏の侵攻を受け、占領されてしまう。三年後には中国人の王が置かれ、独立国としての歴史は終わりを迎えた。
また同時期に孔雀河の流れが変わったことで、一体が砂漠化。オアシスとしての機能を失った楼蘭は賑わいを失い、七世紀頃には無人になったとされる。西暦六四四年、天竺ことインドから帰る途中に楼蘭を通った玄奘三蔵は、「城廓はあるが人影はない」と書き記している。
〈詐術師〉がロプ湖に超空間の出口を作った九世紀頃は、まだ楼蘭の痕跡が残っていたらしい。高さ一〇㍍の仏塔や三間房と呼ばれる倉庫は、子供のアスレチック場になっていたそうだ。ただ現在は、流砂や砂嵐によってほとんどの建物が埋もれてしまっている。
「もう少し休ませてよぉ……」
懸命に訴え掛け、タニアはパンパンに張った腿を揉む。夏休みのチャリティ番組でよく見る光景だが、まさか実演するハメになろうとは……。
「〈姫〉の試験はこの程度じゃありませんよ。どこがゴールかさえ教えてもらえずに、延々走らされたりするんですから」
「仰る通り、仰る通りだけど、昨日までジョギングしてたビギナーに、砂漠縦断ラリーさせないでよ。ペーパードライバーに宇宙船運転させんのと同じだよ、それ」
水筒を甲板に戻す動きを隠れ蓑にし、タニアはシロの胸を盗み見る。
「……私は重いんだ、きちんと膨らんでるから。体力を消耗すんだよ、まな板と違って」
「アルハンブラさ~ん、出しちゃってくださ~い」
「りょ~か~い」
地獄耳のシロに求刑された通り、操舵室から死刑宣告が下る。たちまちボロ船の底に嘘の水面が広がり、船体後方のノズルが小さく白煙を吹いた。砂嚢を括り付けられた時のスルーっぷりと言い、アルハンブラは今日、かわいい姪を火葬場に送迎する気だ。
「待って! 待ってって! 失言でした! 失言でしたってば!」
タニアは助かりたい一心で跪き、スタンディングスタートの構えを取ったシロに縋り付く。
「はい、トローリー!」
熱血体育教師ばりの掛け声で、善意があるなら聞き逃せないはずの訴えを掻き消し、シロがスタートを切る。間髪入れず、ボロ船のノズルが圧縮空気を噴き出し、白煙をタニアの顔面に吹き付けた。
ウィリー気味に発進した船体が、視界の奥にすっ飛んでいく。世界中の誰が見捨てても、救いの手を差し伸べてくれると信じていた船影は、あっと言う間にタニアの前から消え去った。
ああ、未来が、未来が見えない。明日も見られると疑わなかった日の出が、今は宇宙の果て、一三七億光年先より遠い。




