①崖っぷち
「……そんなにハッスルしなくてもいいじゃねぇか」
タニアは顔の前に手を翳し、雲を品切れさせた夏空に吐き捨てた。
冬は勿論、春や秋より断然肥えた太陽が、炒めるように住宅街を照らしている。陽炎を纏い、ゆらゆら揺らめく坂の上に、オアシスが見えるのは気のせいか。遥か頭上を旋回するハゲグリフォンは、暑さが獲物を仕留めるのを今か今かと待ち侘びている。
打ち水の名残である水溜まりには、舌を垂らした鏡像が映っている。
限界まで袖を捲ったTシャツに、ケツを出さんばかりのショートパンツ――クーラーの稼働率に比例し、露出度を増していった服装もそろそろ臨界点だ。
汗でびしょ濡れの背中は、見事に乳バンドを透かしている。だが今のタニアに赤面する余裕などない。って言うか、医学的な原因で顔が真っ赤だ。
正直、オ・ト・メの慎みとか男子の目とか、もうどうでもいい。世間と法が許すなら、全裸で町を練り歩きたいくらいだ。
「……ヒトはどうして服なんか着るんだろう? いっそ全てをさらけ出してしまえば、争いなんかなくなるのに」
周囲は見渡す限り平屋で、マンションはおろかコンクリの建物すら珍しい。丸腰の太陽がルーペを装備した瞬間、火の海になるだろう。
延々とブロック塀が続く様子はまさに刑務所で、タニアの脳裏に「懲役」の二文字をちらつかせる。その割にポップだが、ケンジとサチコの相合い傘は。
「……どうせ一ヶ月くらいで別れんだろ」
暑苦しい落書きに顔を顰めながら、見慣れた十字路を直進する。続いて左の路地に入ると、年老いた桜が瓦屋根を見下ろしていた。
充分に陽光を浴び、太く逞しく育った幹には、透き通った翅のセミが留まっている。青々と葉を纏った枝が塀を乗り越え、道路に垂れた様子は、救いの手以外の何でもない。
木陰の中に表札を掲げる平屋は、小さく風鈴の音を漏らしていた。
風通しをよくするために開かれた玄関からは、板張りの廊下が丸見えになっている。よからぬ侵入者を牽制しているのか、靴箱の上では木彫りのクマが目を光らせていた。
僅かに襖を開いたお茶の間は、蚊取り線香の煙を漏らしている。タニアが店の手伝いを始めたばかりの頃、出前の度に羊羹をご馳走になった場所だ。
クモの巣の貼った軒先には、年季の入った〈自漕船〉が停まっている。
ヒビの入ったオールに、ガムテープで補修したペダル。T字型のハンドルや二人乗りの甲板は、汚らしく塗装が剥げている。「赤い竜巻」の愛称で呼ばれている割には、銀色の面積が多い。ナットが緩んだ前カゴには、「出前中です」の札が括り付けられている。
〈自漕船〉は〈詐術師〉が独自に開発した乗り物で、嘘で作った水面の上を航行する。スピードは全力で走るのと同じくらいだが、同じ仕組みの陸上船と違い、免許が要らないと言う利点がある。そのため、主婦の買い物にリヤシップの牽引にと幅広く活用されている。
基本的には単純な乗り物で、甲板のペダルを漕ぎ、側面のオールを回すだけで前に進む。他方、補助オールを外すのはなかなかの難易度で、タニアは小二まで達成出来なかった。
「まぁた余計な真似してやがんな……」
タニアは〈自漕船〉を睨み付け、余所様の敷地にずかずかと踏み込んでいく。
玄関脇から塀の内側に沿って伸びる小道を進み、桜の生えた庭に回る。何回かコケの生えた敷石を踏み付けると、縁側に正座する二つの人影が見えた。
「いい天気ですねえ~」
脳天気に呟き、ミューラー商店の非正規雇用員は湯飲みの湯気を追う。灰色の瞳一杯に青い空が映ると、奴の口から「ほえ~」っと間抜けな声が漏れた。
童顔に三角巾、桜色のエプロンと言う組合せには、「労働中」より「調理実習」と言う表現のほうがよく似合う。夏真っ盛りにもかかわらず長袖のブラウスを着ているのは、日差しに弱い肌を守るためだ。若草色のスカートもしっかりと膝を隠している。
「そうだねえ~」
ぼけ~っとした顔で応えるトメさんは、今にも〈言話〉の向こうの「オレ」に振り込んでしまいそうだった。
木綿の着物に割烹着を着け、白髪をお団子に纏めた姿は、誰もが思い描く優しいお婆ちゃん。今日は合わない入れ歯を外しているのか、シワに囲まれた唇が小篭包の先っぽのように窄まっている。
どっちも忘れてやがんな……!
胸の中で吐き捨て、タニアは奥歯を噛み締めた。ギリ……! っと穏やかとは言えない音が鳴り、暑さのせいで萎びていた指が拳を編んでいく。
トメさんは大目に見なければなるまい。
齢八〇と言えば、大事なネジが外れていても仕方のないお年頃だ。
――が、隣のブロンド女は話が違う。
三〇前と言えば働き盛り、頭のネジもナットもきちんと締まっているのが当然だ。でなければ高齢化社会などと言う、チョモランマ登頂用の装備にも勝る重荷を背負えない。
「助かったよ、えっと……」
トメさんは口ごもり、ブロンド女の顔を指す。
「シロです……って、あれ? さっきも言ったような?」
「ベロちゃんがテレビを直してくれてねえ」
妖怪人間の子供と向き合い、トメさんは額を床に着ける。
「そ、そんな、頭を上げて下さい! アンテナ線を挿し直しただけですから!」
うやうやしくお礼を言われたシロは、「○」、「△」、「□」と口の形を慌ただしく変えていく。激しく狼狽し、顔の前で手を振りまくる様子がアシカみたい。
「いやいや、アンタは優しい子だよ、えっと……」
「シロです」
「そうそう、ボロちゃんはねえ」
歳月と共にバイブするようになった手を顎に当てると、トメさんは感慨深げに何度も頷く。
「よかったら息子の嫁になってくれないかい? 来年で五〇だってのにまだ独り身なんだ。アンタみたいな子が嫁に来てくれたら、安心してじいさんのところに行けるよ」
シロの手をぎゅっと握り締め、トメさんは熱っぽく訴え掛ける。
動揺したシロは正座したまま飛び退く、と言う離れ業を披露する。立て続けにシロは大きく仰け反り、ブリッジ寸前まで仰け反り、裏返った叫び声を上げた。
「お、お嫁さん!? ダダダダメです! 男の人とお付き合いなんて早いです!」
タニアはイラッとした。正直イラッとした。アイドル声優も真っ青なカマトトぶりに。
第一、三十路間近と言えば、女子的には二時間ドラマのラストに匹敵する崖っぷちのはずだ。良縁があるなら、他者を押し退けてでも掴み取るべきではないか。職務放棄だけなら説教で許してやろうと思っていたが、これはもう制裁を加えるしかなさそうだ。
腹立たしいアラサーを見据えながら、タニアは大股で後ずさっていく。
脳内にしかないロープに背中をぶつけ、反動を付け、飛び出す。ダチョウばりの疾走からテイクオフし、縁側に蹴り込む。
「フォイアーキーック!」
必殺の掛け声と共に、雷鳴がコツを尋ねに来そうな轟音。
タニアの足に鈍く確かな手応えが走り、顔面に直撃を受けたシロがダミー人形のように吹っ飛ぶ。置いてけぼりを食らった奴の残像は、まだ顔を赤らめてやがった。
Y字の着地を決めるタニアとは裏腹、シロはきりもみ状の放物線と化し、お茶の間に殴り込む。古めかしいちゃぶ台がコイントスっぽくひっくり返ると、お茶うけのかりんとうがざっくざっくと宙を舞った。




