⑦プラチナスマイル
「タニアさんはどうしてあんなに〈荊姫〉さんを応援してくれるんですか? 〈荊姫〉は一番、一番駄目な〈姫〉です。ううん、〈姫〉以前に人としてどうしようもない。生まれてからずっと側にいた人が苦しんでても、自分の安全を優先するような奴なんです」
罵声にも泣き声にも聞こえる問い掛けが響き、サッシが刺々しく震える。同時にカーテンの隙間から細く差し込む月光が、唾の霧を照らし出した。
「随分と酷評するねえ。ターニャが聞いたら肋骨の一本や二本じゃ済まないよ」
マーシャの口調は冗談で、目は本気だった。
警告通り、タニアは猛然と厨房のフライパンを掴み取り、シロの後頭部をスマッシュする。両足を掴み、ズルズルと引きずり、意識不明になったシロを軒先に叩き出す。トドメに貸してやったパジャマをひん剥き、全裸でも風邪を引かないようケツの穴に長ネギを突っ込んでやる。
――とまあ、タニアが一一年間付き合ってきた暴れ馬なら、間違いなく制裁を敢行する。事実、今までも〈荊姫〉さまをdisるような不届きものには、罪状に相応しい厳罰を与えてきた。
だが不可解なことに、シロの口から〈荊姫〉さまの批判が出ても、タニアの胸には怒りが沸かない。銭湯で「操り人形」と言われた時も、お行儀よく耳を傾けているだけだった。
むしろ容赦ない罵倒を聞いていると、煮えくり返るはずの心が急速に冷えていく。〈荊姫〉さまを心底毛嫌いするシロが見ていられなくて、睨むべき対象から目を逸らしてしまう。
「応援ってより崇拝だね、あれは」
呆れ果てたようにボヤき、マーシャは額を押さえる。テレビに〈荊姫〉さまが映った瞬間、録画用の〈映針〉片手に突進してくる姪でも思い返しているのだろうか。
「あの子の両親が初めて買ってやった絵本が、〈荊姫〉さまを題材にしてたってのも大きいんだろうね。引き取ったばかりの頃は重宝したよ。町内中に響く声で泣き喚いてても、ピタリと泣き止むんだ。あれを読んでやるだけでね」
「引き取った……? タニアさんは〈ロプノール〉の生まれじゃないんですか?」
「あの子は妹の娘さ。私には一回り以上歳の離れた妹がいてね、別の町で暮らしてたんだが……知ってるだろう? 『一〇〇年の雨』って呼ばれるあの事故さ」
「……〈ダマスカス〉!?」
上擦った声を出した拍子に、シロの目が大きく迫り出す。
落ち着きを取り戻すためだろうか。
シロは唾で濡れた上唇を口の中に折り込み、胸に手を当てる。
深く吸い、大きく吐く内に、乱れていた呼吸が整っていく。
「気候制御装置が故障して、沢山の方が亡くなったんですよね……」
「そう、一〇〇年分の雨が一晩の内に降って、町も人も水没させちまったんだ」
マーシャはもの悲しく笑い、肌寒そうに腕を擦る。
「何とかターニャだけは避難させたんだけど、妹夫婦は、ね」
「……それでマーシャさんが?」
「かわいい姪だからね。うちの人も喜んでたよ。ああ見えて子供好きだから。まあ私に気を遣って、嬉しそうなフリをしてくれたのかも知れないけど」
経緯を語るマーシャは、雲一つない青空のように晴れやかだった。〈詐校〉にも通わない姪を引き取らされておいて、後悔はないとでも言うのだろうか。
気恥ずかしさがその何倍もの嬉しさが入り交じり、タニアの全身にくすぐったさを広げていく。前髪をクシャクシャに掻き回しても、やけにもぞもぞする足を曲げたり伸ばしたりしてみても、心地よく居心地の悪いむず痒さは治まらない。妙にのぼせた感じのする頭の中では、小三でお別れした伯母の布団が、おいでおいでと手招きしている。
「で、その事故の時だよ。被災地を慰問して下さったのが〈荊姫〉さまだったのさ」
再び表情を曇らせ、マーシャはタニアの部屋へ続く階段に目を移す。柱の陰に隠れているとは言え、視線を向けられる格好になったタニアは、慌てて濃い影の中に逃げ込む。
「五歳の子供がいきなり両親を亡くしたわけだろう? あの子、涙も流せずに呆然としてたらしいんだ。そうしたら〈荊姫〉さまが自分のほうから歩み寄ってきて、抱き締めて下さったんだって」
らしくもなく穏やかに語り、マーシャは無言でお礼を伝えるように微笑む。
「ありがとう」のあて先は、遠く離れた〈荊姫〉さま以外にあり得ない。だがタニアには不思議と、手を伸ばせば届く距離に送っている気がする。
「私の顔、涙と鼻水でグシャグシャだったのに、全身泥だらけだったのに、お洋服が汚れるのも気にしないでぎゅうっとしてくれた――そう言って、あの子、泣きながら笑ってたよ」
鼻声になってきたマーシャは、一度大きく鼻水を啜り、斜め上に目を向ける。何としてでもこぼしたくないのか、忙しく動き回る目尻が潤んだ光を支えている。
「その時約束したらしいんだ、『ずっと一緒にいる』って。でもお相手は〈姫〉さまだろう? いつまでもターニャだけに構っていられる身じゃない。結局一ヶ月くらいで、次の町に向かわれたんだそうだ」
「……んなさい」
ことの顛末を聞いたシロは口惜しそうに顔を顰め、膝小僧に深く爪を立てる。しきりに何か呟いているようだが、唇の開き方は極めて小さい。あれでは真横のマーシャにも聞こえないだろう。
「……タニアさんは怒ってないんですか、約束を破られたのに」
勇気を振り絞るように拳を握り締め、シロは恐る恐るマーシャを窺う。
「私も怒るのが自然だと思うんだけどね、あの子物分かりがいいほうじゃないし。でもターニャは言うんだ。〈荊姫〉さまは最後まで私を見てた、お付きの人に引っ張られるように避難所を出てったって。自分の側を離れたのは本心じゃないって信じてるんだね」
避難所を去ったのは、〈荊姫〉さまの意志じゃない――。
五歳の頃より思慮を巡らせることが出来るようになった今でも、タニアの見解は変わらない。
事実、離れ離れになった後も、〈荊姫〉さまは毎日手紙をくれた。文末を定位置にする「必ず迎えに行くから」は、日常を綴る文章よりも深く便箋を窪ませていた。あれが社交辞令に過ぎなかったなら、ペン先に掛かる力はもっと弱かったはずだ。
酷いと言うなら、〈荊姫〉さまに引っ越すことも伝えずに避難所を去ったタニアのほうだ。
小さな頃のタニアは人見知りで、年始くらいしか顔を合わせたことのなかった伯父夫妻に、上手く事情を説明出来なかった。無論、親戚ともロクに喋れない少女が、避難所の職員さんに手紙の移送を頼めるはずもない。〈荊姫〉さまの手元に便箋が戻って来た時の気持ちを思うと、恩を仇で返した自分を引っぱたきたくなる。
「ターニャが〈姫〉を目指してるのは、〈荊姫〉さまの近くに行きたいからさね。あの子は〈荊姫〉さまを嘘吐きにしたくないんだ。自分が〈姫〉になれば、ずっと〈荊姫〉さまの側にいられる。そうすれば、〈荊姫〉さまは約束を破ったことにならない」
湿布の欠かせない腰を叩きながら、マーシャは切なげに息を吐く。
「向こうさんはとっくに忘れちまってるだろうにねえ」
「憶えてます」
残酷な推察を掻き消したのは、迷いなく言い切る声。
自信たっぷりに背筋を伸ばしていたのは、申し訳なさげに縮まっているはずのシロだった。
瞼を腫らし、頻繁に鼻を啜る姿は、咽び泣いているようにしか見えないかも知れない。その実、前髪のせいで見えにくい唇は、活き活きと曲線を描いている。満面の笑みと形容するのに、これ以上相応しい表情はないだろう。
「憶えてますよ、絶対に」
根拠のないこと言うな!
タニアは怒鳴り、柱の陰から飛び出し、無責任な発言をしたシロに掴み掛かる――はずだったのに、手が口を覆い、怒りとも悲しみとも違う涙が頬を伝う。咄嗟に唇を噛み締めなければ、たかが行き倒れのお墨付きに嗚咽を溢れさせるところだった。
「そう言ってもらえると、私も嬉しいさね」
満足げに頷き、マーシャはシロの背中をさする。
愛おしそうに撫でられたシロは、もう一度言い切るように深く顎を沈めた。




