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①雨と薔薇

 際限なく屋根を叩く豪雨は、地鳴りのように体育館を揺さ振っていた。

 セミも昏倒するような蒸し暑さに見舞われた室内は、天井に薄霞うすがすみを掛けている。窓と言う窓は不潔に曇り、濁った水滴をしたたらせていた。

 毛穴に染み込まんばかりに蔓延まんえんするのは、汗と消毒液の臭い。

 あちこちに転がったゴミ袋には、血染めの包帯が無造作に詰め込まれている。使用済の絆創膏ばんそうこうが目に入ると、今はもうかさぶたすら残っていない膝小僧をヒリヒリとした感覚が襲う。忘れもしない。泥濘ぬかるみに足を取られ、転んだ直後の痛みだ。


 段ボール製の衝立ついたてに仕切られた床には、一〇〇〇人以上の被災者が詰め込まれている。

 にもかかわらず、耳に届くのは獰猛な雨音ばかり。

 重々しく唇を結んだ人々は、泣き言はおろか咳一つ漏らさない。ただ古びた人形のようにうつろな表情で、床に敷かれたブルーシートと見つめ合っている。


 バスケットゴールの真下には、五歳の女の子が座り込んでいた。

 すり傷を負った顔は勿論もちろん、ピンクのパーカーもデニムのショートパンツも泥だらけ。自慢のポニーテールはほどけかけ、生乾きの雑巾のような悪臭を放っている。

 一世帯に一枚支給されたブルーシートに、限られたスペースを分け合う家族の姿はない。なのに抱えた膝を胸に密着させ、小さな身体を限界までコンパクトに畳んでいる。

 ショールのように羽織はおった毛布のせいで、額には大粒の汗が浮いている。でもひび割れた唇の色は、冷え切った青紫。壁を見つめる瞳はただただ無機質で、運命への怒りはおろか悲しみすらない。


 ……もうすぐだよ。


 透明な手を肩に置き、茫然自失の女の子に声を掛ける。

 瞬間、玄関からドアの開く音が響き、やわらかな風が体育館の中に流れ込んだ。

 室内に立ちこめていた悪臭がかすかにやわらぎ、女の子の髪がかされたようになびく。程なくドアに近い場所から順に、声のない――そう、表情と口の形だけの歓声が上がった。

 しかばね以上に生気のなかった人々が、次々と歯をさらけ出していく。ついさっきまで包帯を巻いた頭を抱えていたお婆さんは、感激のあまり瞳を潤ませ、両手で口を覆っていた。


 顔を見せただけで、凍っていた心を溶かしてしまう――。


 自分自身の手柄でも、親兄弟が成し遂げたことでもない。

 それは重々理解している。理解しているのに、銭湯で不細工さを思い知ったばかりの鼻が、性懲しょうこりもなく伸びていく。正直、「どんなもんだい!」と世界中に自慢して回りたい気分だ。


 一頻ひとしきり笑顔が行き渡ると、体育館の中には再び沈黙が波及していく。

 とは言え、疲労や絶望が勢力を取り戻したわけではない。

 室内から言葉を奪ったのは、声でけがすのを躊躇ためらわせる空気。人々を萎縮させ、同時に見とれさせてしまうおごそかさは、歴史ある王宮に他ならない。秋の月夜のように凛とした静寂には、ずっと耳を傾けていたくなる美しさがある。


 まとう空気こそ格調高いが、あの人本人にお高く止まったところはない。むしろマスクをしたお爺さん、ずぶ濡れの親子と気さくに歩み寄っていく。律儀りちぎなあの人は母親の懐で眠る赤ちゃんさえ見落とすことなく、人々の手を取っていった。

 ふんわりした微笑みが皆の緊張を解きほぐし、体育館のあちこちから活気に溢れる声が上がる。足跡のようにあの人の後を追うそれは、少しずつ女の子に近付いていった。


「どうしたの?」

 背後から女の子に問い掛けてきたのは、聞き覚えのない女声じょせいだった。

 恩知らずなことを承知で告白すると、どんな声だったかははっきりとおぼえていない。絶対に忘れられないはずのそれには、ザーザーと砂嵐に似たノイズが掛かっている。何しろ〈小詐校しょうさっこう〉にも通っていない年頃だったし、六年もの歳月がすっかり記憶を薄れさせてしまった。


 ただ胸に広がった光景だけは、ありありと憶えている。


 あの声が聞こえてくると、心の中を満天の星が埋め尽くす。

 世界中がきらきら輝いて、独りでに感嘆の声が漏れていく。


「こんにちは」

 呼び掛けられたにもかかわらず、少女は振り返らない。

 耳元に優しく囁きかける声も、背中が空っぽだった時に比べて遥かに温かな空気も、避難所で膝を抱えていた時は感じなかった。今思えば、新鮮な刺激を与えられなくなった五感が、身体の外に出て行ってしまっていたのだろう。延々と壁だけを眺めさせ、空気以外の歯応はごたえを味わわせなかったら、愛想を尽かされても文句は言えない。


 慟哭どうこくを彷彿とさせる雨音も、四方にひしめく息遣いも、女の子の世界には存在しない。ただ夜の海原よりも広く深い暗闇が、この世に独り取り残された自分を包囲している。

 いや肉体を認識していたかも怪しい。

 あの頃は線香の煙のように限りなくぼやけた意識だけが、無と呼ぶのもはばかられるほど殺風景な場所を漂流していた。


 自分を囲んでいた風景を俯瞰ふかんで語れるようになったのは、〈ロプノール〉に引き取られた後のことだ。それも夜な夜な伯父夫妻の部屋に枕を持参していた頃は、感情を抑えて話すことが出来なかった。いや、こともあろうに大恩人の声を思い出せない辺り、未だに気持ちを整理しきれていないのかも知れない。


「ごめんね。目も合わせないんじゃ、話し掛けられたって判らないよね」

 二度に渡って無視されたはずのあの人は、怒るどころか逆に謝る。うやうやしく下げた頭を上げると、あの人は女の子の前に回り込んだ。

 目の前にきらびやかな金髪が来た途端、嘘のように汗と消毒液の臭いが消える。代わりに淡く甘い香りが漂いだし、心の中に無数の薔薇が咲いた。


「こんにちは」

 微笑みながら挨拶し、〈荊姫いばらひめ〉さまは女の子の前に膝を着く。

 シルクのブラウスに純白のツーピース、胸には薔薇のコサージュを着けている。一見するとザ・お嬢さまと言った装いだが、視線を下げると〈詐校さっこう〉指定の上履きが目に入る。

 見栄みばえより実利を重視したのは判るが、ミスマッチな印象は拭えない。反面、チューブを振って歯磨き粉をしぼり出そうとする勇姿を思い返すと、〈荊姫いばらひめ〉さまらしいと感じるからおかしい。


 声がそうだったように、恩知らずの女の子はやはり〈荊姫いばらひめ〉さまの顔をよく憶えていない。どっかの行き倒れにも白状したが、お星さまのようにまぶしくて直視出来なかった。そしてそれ以上に、声や外見なんかどうでもよかった。笑みを共有しているだけで胸が満たされたから。


 一方で、のっぺらぼうなままだと気持ちが悪いのも事実だ。


 そんなわけで以前はマンガやブロマイドでモンタージュを作っていたのだが、どうもしっくり来ない。二次元には鼻の穴も下唇もないし、三次元は三次元でメイクさんの凄腕が加わっている。

 何しろ避難所で過ごしていた頃の〈荊姫いばらひめ〉さまは、リップさえ引いていなかった。バリバリに盛ったステージ上の姿とは、お花畑と焼け野原並の差がある。


 一つだけ断言出来るのは、あまりボリュームのある体型ではなかったと言うこと。仮設のお風呂で洗いっこした時は、胸と背中を間違えてジャックナイフ的な眼差しを向けられた。

 一種のトラウマになってしまったのだろうか。〈小詐校しょうさっこう〉低学年の頃は、指名手配犯のような形相ぎょうそうを何回も夢に見た。そしてその度に、地図の出来た布団を干す羽目になった。

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