⑥説教タイム♡
「タニアさん、知ってます?」
鼻水を啜る音が小さくなるまで待ち、シロは重く閉じていた口を開く。
「〈姫〉のお仕事には〈KHM〉みたいな――アイドルさんみたいなものも確かにあります。あの胸部の贅肉だけが取り柄の税金泥棒……じゃねーや、瑪瑙の野郎……ゴホン、〈乙姫〉さんも言ってやがりました。リアルに見放された悲しい男子に、夢と潤いを与えるのも〈姫〉の大切な仕事なんだって」
静かに語り掛けると、シロは尾ビレのように手を揺らし、肩にお湯を掛けた。
枕元で絵本を読み聞かせるような口調が、タニアの心を落ち着かせたのだろうか。滅茶苦茶に背中を上下させていた呼吸が、不思議とペースを取り戻していく。比例して嗚咽の間隔が広がり、鼻水を吸い上げる回数も減っていった。
「ただ、華々しい仕事だけが全部じゃない。むしろ被災した皆さんのお見舞いとか、老人ホームを慰問したりとか、スポットライトを浴びないお仕事のほうが多いんです」
「……知ってる」
色鮮やかな衣装を纏った〈荊姫〉さまが、魅力的ではないと言えば嘘になる。だがタニアの胸に感動を憧れを刻み込んだのは、幾万もの視線を受けながら、歓声を浴びる姿ではない。タニアが目指すのは、泥まみれで項垂れていたご近所さんたちに、とびきりの笑顔を与えてしまった〈荊姫〉さまだ。
六年の歳月を経て尚、その想いに変わりはない。
現に汗で崩れたメイクは、立て膝を繰り返したせいでしわくちゃになったスカートは、ステージ衣装の何倍――いや何百倍も眩い光を放っている。
三階席まで照り返すスポットライトも、サイリウムの花畑も、避難所で見た姿と重ねると、白昼の懐中電灯のように霞んでしまう。煌びやかな夜景によって星が見えなくなってしまうように、強い光の前に弱い光が目立たなくなるのは自然の摂理だ。
「〈姫〉が逢う人たちは、多くの場合、感情の凍った顔をしてます。田舎町の小娘が微笑み掛けただけじゃ、愛想笑いも返してくれない」
難しい顔で語り、シロは目を伏せる。
……その通りだ。
タニアの脳裏に手放しの賛同が響き、胸の中の自分が大きく頷く。
「ただいま」を聞かせる玄関、
三つの椅子を侍らせた食卓、
枕の左右から聞こえてくる寝息――。
「当たり前」がなくなった後に残る穴は、海溝のように広く底知れない。
失ったものを噛み締めようにも、あまりに大きすぎるそれに呆然とするばかり。見渡して整理することすら出来なくて、涙の一滴も流せない。幼い日のタニアはただ両膝を抱えて、乾燥した眼差しを壁に向けていた。
「凍った心を溶かすには、『力』が必要なんです」
「『力』……? みんなを笑わせるのに強い力が必要なの?」
タニアはシロの論理が理解出来ずに、まばたきを繰り返す。
避難所で見た〈荊姫〉さまは、笑みを配っていただけ。
力尽くで皆の頬を引っ張り上げたりはしていなかった。
きょとんとするタニアを見たシロは、くすっと肩を揺らし、細かい波紋を走らせる。
「『力』って言うのは腕力とか武力だけを指すんじゃない。知力や体力、権力とか財力――他の人に影響を及ぼすことの出来る全ての要素が、その人の『力』なんです」
「見た目も?」
「他人の心を動かす力です」
シロは迷いなく言い切り、深く沈めた顎で水面を打つ。
「〈姫〉が全員若い女の子なのも、その辺りが関係してるらしいです。ぷろでゅーさーさんが熱弁してました。『むさ苦しい野郎とかしわくちゃのバーさんなんかより、ギャルに微笑み掛けられたほうが嬉しいじゃない』って」
誰かのモノマネをするシロの声は、酒焼けしたようにハスキーだった。ピンと立てた小指と言い、なよなよ左右する腰と言い、何となく二丁目の香りがする。
「なんだよ、それ……」
脱力感に負け、ボヤくと、タニアの唇は外側に咲いていく。意図せず小さな笑みが漏れ出すと、物悲しい湯口の音が聞こえなくなった。
タニアの笑顔を見たシロは、安堵したように目を細める。
「心配しなくても大丈夫。タニアさんにはもう誰かの気持ちを動かす力があります。さっきクラスメイトに告白されたって言いましたよね? それが証拠です。タニアさんは間違いなくその男の子の、自分以外の気持ちを動かしたんです」
一度口を閉じ、シロは熱っぽく飛び散っていた唾を飲む。
「それに『力』って言うのは、当人の心掛け一つで強くも弱くもなる。ほら、ムッキムキのマッチョさんだって、トレーニングをサボってたら筋肉が落ちちゃいますよね?」
タニアが答える前に、シロは自分の顔に手を当てる。
「見た目も例外じゃありません。どんな美人さんでも余裕ぶっこいてお手入れを怠ってたら、すぐにシミやニキビが出来ちゃいます。毎食ご飯をおかわりしてたら、腹回りがお餅みたいになっちゃうんですから」
暑苦しくタニアを見つめ、シロはビンッ! と人差し指を立てる。グリーンピースでも詰めたように膨れた鼻は、浴槽よりも濃く湯気を噴き出していた。
「炭水化物をナメちゃいけませんよ。ええ、一週間で三㌔増えた時は、月への移住を本気で考えましたもの。あの時は酸素の有無より、地球の六分の一しかない重力のほうが大切だったんです」
シロは怪談のようにおどろおどろしく語り、平坦な腹を摘む。引っ張っても皮が伸びるだけなのを確認すると、シロは応援団員のように勇ましい声を発した。
「っし!」
ダイナミックなガッツポーズが水面を砕き、極太の水柱が天井を打つ。
シロがなぜ月へ移住しようとしたのか、タニアには見当も付かない。ただ体重と言う忌まわしい概念が、物質の根本的な重さである質量に重力を掛けた数値であることは知っている。
仮に地球の六分の一しか重力のない月面に、体重計を持って行ったとしよう。地球の重力を「一」として判決を下しているメーターは、六分の一に減った数値を弾き出すはずだ。




