第1話 明日から、あなたのお茶は淹れません
「ロゼッタ、婚約が決まったんだ」
ニコラがそう言ったとき、私はちょうど彼のカップへ湯を足していた。
朝から頭が重いと聞いたので、いつもより少し薄くしたお茶だった。ポットの口から落ちる細い流れを止めるのが遅れて、縁の近くまで満たしてしまった。
「……婚約?」
「ヴィリエ伯爵家のアデル嬢と。先週の夜会で話して、父たちも乗り気でね。昨日、正式に決まった」
彼は二十一歳で、私は十九歳。隣り合う家の子供として、一緒に育った。週に三度、どちらかの家でお茶を飲む習慣も、もう何年続いているかわからない。
けれど、私たちは婚約者ではなかった。親同士が取り決めたことも、指輪を贈られたことも、一度もない。
八歳の私に彼が言った「大きくなったら、僕のお嫁さんになってよ」は、どこの書類にも残っていなかった。
「君には早く知らせたくて。驚いた?」
驚いた、だけならよかった。
彼がいつか改めて言ってくれるのを待っていた。子供の頃と同じ笑顔で、けれど今度は家族の前で、私を選んでくれる日を。
その彼が、目の前で別の女性との未来を嬉しそうに話している。
「そう……おめでとう」
どうにか声にすると、ニコラは晴れやかな顔でカップを持った。私がどんな返事をするか、少しも心配していなかった人の顔だった。
「ありがとう。彼女も君に会いたがっているんだ。明日、ここへ招くから来ないか。君のお茶が一番飲みやすいって話したら、ぜひ飲んでみたいって」
明日は水曜日で、本来、ここへ来る日ではない。そう思う自分が妙におかしかった。いつ来るかなんて、もうどうでもいいはずなのに。
ニコラは薄いお茶を飲み、皿の上の菓子を手に取った。
「これ、レモンの皮は入っていない?」
「入っていないわ。苦いところが嫌いでしょう」
「さすが。君といると、いちいち言わなくていいから助かる」
私は膝の上で指を組んだ。彼に何か言おうとすると、さっきのおめでとうまで崩れてしまいそうだった。
助かる、という言葉がこんなに悲しいものだとは、知らなかった。
* * *
家に帰り、手袋を脱ぐより先に、机の引き出しを開けた。
叔母のセシルから届いた手紙が、二通入っている。港町に住む叔母は、春にも夏にも、遊びにおいでと書いてくれた。今度は半年でも一年でもいいと。
私は一度も海を見たことがない。叔母の手紙に描かれた帆船の絵が好きで、届くたび、窓際に広げて眺めていた。
返事にはいつも、また今度、と書いた。ニコラの誕生日がある。彼が試験を受ける。忙しい彼を、一人にしたくない。どれも頼まれたわけではなく、私が残る理由にしたことだった。
「今度って、いつだったのかしら」
手紙の船がにじんで、ようやく泣いているとわかった。
ニコラを好きになった日のことは覚えている。八歳の夏、庭の木に登り、下りられなくなった。彼は得意そうに私のいる枝まで来たのに、下を見た途端、自分も怖くなってしまった。
庭師に二人まとめて助けられ、大人たちに笑われた。私が泣きそうになると、彼は真っ赤な顔で、僕が先に怖いと言ったんだ、と言い張った。
『大人になったら、もっと上手に助けるよ。だから僕のお嫁さんになってよ』
私が頷くと、彼は小指を差し出した。その指を握ったときの、土と葉っぱの匂いまで覚えている。
彼が優しかったことは嘘ではない。私の本を高い棚から取ってくれたし、父に叱られて落ち込んでいると、庭を歩こうと誘ってくれた。
だから、大人になってからも隣にいれば、同じ先へ進めるのだと思っていた。
夕食に下りてこない私を、母が見に来た。広げた手紙と泣いた顔を見ても、すぐには何も聞かなかった。隣の椅子に腰を下ろし、私が話し始めるまで待ってくれた。
「ニコラが、婚約したの」
そこまで言うと、もうおめでとうとは言えなかった。母の袖を握って、みっともないほど泣いた。
別の人を好きになった彼を責める権利はない。約束を覚えているか、確かめることもしなかった。そんな理屈ばかり頭に浮かんで、それでも悲しくてたまらなかった。
「お母様。私、明日、笑えないと思う」
「笑わなくていいのよ。あの子の婚約を喜べないからって、あなたが悪い娘になるわけではないわ」
母は私の手に、自分のハンカチを握らせた。
「セシルのところへ行きたいなら、お父様には一緒に話しましょう。行きたくないなら、ここにいていい。ニコラの予定を先に考えなくていいのよ」
その晩、初めて叔母への返事に、海を見たい、と書いた。
翌日は、行くことにした。言わないまま待ち続けた私の気持ちを、もう一度、何も言わずに置いていきたくはなかった。
* * *
翌日のアルマン家の応接間には、薔薇の香りがした。
アデル様は、ニコラの隣に座っていた。濃い薔薇色のドレスがよく似合い、彼が何か言うたび、親しげにその腕へ手を添えた。
私の席もあった。いつもの、彼の向かいではなく、茶器を置いた小卓のそばに。
「お会いできて嬉しいわ、ロゼッタ様。ニコラ様から伺っています。こちらのお家には、ずいぶんお詳しいのですってね」
挨拶を終えて座ろうとすると、アデル様は空のカップを私へ差し出した。
「お茶、お願いしてもよろしい? ニコラ様のお口に合うようにできるのは、あなたくらいだそうですから」
背後にはアルマン家の侍女が控えている。その人が一歩動きかけると、ニコラが笑って言った。
「ロゼッタに任せれば大丈夫だよ。昔から僕の好みをよく知っているんだ」
何度も聞いた言葉だった。昨日までなら、私も笑ってポットを持ったと思う。
今日は、アデル様が私の顔を確かめながら、その言葉を聞いていた。私がカップを受け取ると、満足したようにニコラのほうへ向き直った。
「助かるわ。私、そういう細かいことは苦手なの。結婚しても、ときどき教えに来てくださる?」
「そうしてもらえると安心だね。君たちが仲良くなってくれたら、僕も嬉しい」
ニコラは本当に嬉しそうだった。
自分が結婚すれば、私の暮らしも変わるかもしれない。私はもう、以前と同じ気持ちでここへは来られない。彼の頭には、そんな考えはないようだった。
私は預かったカップを、小卓へ戻した。
「お茶の淹れ方でしたら、こちらの侍女の方がご存じです。茶葉も、お菓子も、用意してくださるのは皆様ですから」
「でも、ニコラ様があなたでなくてはと仰るのよ。お好きなのでしょう? こうしてお世話をするのが」
違います、と言おうとして、声が出なかった。お世話が好きだったのではない。彼が好きだった。
朝から食欲がないと聞けば、菓子を小さく切って皿に置いた。濃いお茶で顔をしかめれば、次に会う日まで覚えていた。好きな人が少し楽になれば、それだけで嬉しかった。
それを、この人の口から、続けて当然の役目のように言われたくなかった。
「私は、ニコラが好きだったんです」
ニコラが私を見た。やっと、隣にいる人から目を離して。
「小さい頃、お嫁さんになってほしいと言われて、ずっと覚えていました。子供の約束ですから、今のお二人の婚約をどうにかしてほしいとは思っていません。でも、何も変わらないふりをして、ここへ来続けることはできません」
言ってしまった。母以外には誰にも話さなかったことを、本人と、その婚約者の前で。
ニコラは困ったように眉を寄せた。その顔を見て、思い出してさえもらえないのだとわかった。
「そんなことを……僕が?」
「まあ。子供の頃って、いろいろなことを言いますものね」
アデル様の声は、慰めるように柔らかかった。
「私も、お父様と結婚するなんて言っていましたわ。まさか、それを大人になっても本気にされていたとは、ニコラ様も思わないでしょう?」
彼の腕に添えられた指が、そっと動く。
ニコラは私と彼女を見比べ、気まずそうに笑った。
「そうだね。ロゼッタも、そこまでのつもりじゃ……」
「本気でした」
私の声で、彼の笑いが止まった。
「私がどう思っていたかまで、あなたが決めないで。今日、何でもなかったことにして笑わなければいけないくらいなら、もう来ません」
膝の上で手が震えていた。けれどポットを握ってごまかすことはしなかった。
アデル様は、わずかに唇を尖らせた。
「そんなに大げさになさらなくても。私たちは、今までどおり親しくしたいだけですのに」
「今までどおりではないんです。私には」
立ち上がると、ニコラも腰を浮かせた。
「待って、ロゼッタ。君がそんなふうに思っていたなんて、僕は知らなかったんだ」
「そうね。だから今、お話ししました」
知らなかったことを責めているのではなかった。知った今、笑って小さな話にしようとしたことが、悲しかった。
小卓の上には三つのカップがある。私はどれにもお茶を注いでいなかった。
「明日から、あなたのお茶は淹れません。今日も、これで失礼します」
ニコラが名前を呼んだ。いつものように、呼べば振り返って用事を聞くと思っている声だった。
扉のところで一度だけ足を止めたけれど、私は自分の侍女のミナに頷き、そのまま廊下へ出た。
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