第4回 帝国、沈黙する
帝国軍大演習の朝は、たいてい無駄に早い。
眠い。
寒い。
偉い人ほど声が大きい。
そして今年は、それに加えて、ものすごく紙が多かった。
「何だこれは!」
「通告書です!」
「見ればわかる!」
帝都郊外、第一演習場。
まだ朝靄の残る広野に、整列した軍勢がずらりと並んでいる。歩兵、騎馬兵、魔導兵、補給隊、伝令、指揮官、監察官、見物の貴族、もっと偉い見物の貴族、その後ろで朝食のパンをかじる下働き。大演習というのは、要するに国家規模で行う大がかりな見栄の張り合いである。
広い演習場には帝国旗がはためき、観覧席には金ぴかの天幕まで立っている。
いかにも金がかかっている。
いかにも中止にしづらい。
つまり、面子を潰すには申し分ない舞台だった。
その朝、その全軍の指揮系統へ、同時刻に一斉配達された封書があった。
軍務大臣宛て。
宮廷魔導士団長宛て。
各軍団長宛て。
演習監察局宛て。
そして皇帝陛下宛て。
題名は簡潔。
《差止通告書》
内容も簡潔だった。
『基礎魔法特許群につき、帝国との包括ライセンス契約は昨夜零時をもって失効済み。
よって許諾なき使用、訓練、演習、教材配布その他一切の実施を差し止める。
以上。』
朝っぱらから叩きつける文面として、たいへん感じが悪い。
だが、法的には申し分ない。
軍務大臣グラハム・オルデンは、演習場本部天幕の中でその書面を読み、額に朝露とは別種の水分をにじませていた。
「この『失効済み』とは何だ!?」
「『昨夜零時をもって……』」
「読み上げるな!」
横の秘書官が紙を持ったまま縮こまる。
この男、いつもこうだったな、と周囲が思う程度には成長がない。
そこへ別の伝令が駆け込んできた。
「報告! 第三魔導大隊、起動試験に失敗!」
「何だと!?」
「火炎陣が発動しません!」
「予備術式を使え!」
「予備も止まりました!」
「なぜだ!?」
「基礎術式が同じです!」
天幕の空気が、すうっと冷える。
そのころ演習場では、もっと露骨な事態が起きていた。
「起動!」
と隊長が叫ぶ。
「《フレイム・――》」
魔導兵が一斉に詠唱へ入る。
陣が足元に浮かぶ。
光が走る。
火が来る。
……はずだった。
だが次の瞬間、魔法陣は起動の寸前で、すっと光を失った。
ぽしゅ。
という、やけに情けない音がした。
戦場の兵器としてどうなのかと思うほど、間の抜けた消え方だった。
「……」
「……」
「……もう一度!」
「《フレイム・――》」
ぽしゅ。
別の部隊でも。
「障壁展開!」
ぱ……しゅ。
「照準補助、同期!」
しゅる……ぽ。
「伝達術式、接続!」
ぷつ。
どれもこれも、起動の瞬間に“何か”が働き、魔法陣そのものが気まずそうに消えていく。
派手に爆散もしない。
逆噴射もしない。
ただ、
「あっ、これ権利関係まずいやつだ」
みたいな顔で静かに消える。
安全設計が優秀すぎるのだった。
兵士たちはしばらく呆然としていたが、やがて前列の若い兵がぽつりと言った。
「……剣、使います?」
そう。
それしかない。
帝国軍はその朝、突然、剣と矢しか持たない集団へ戻った。
観覧席の貴族たちがざわつく。
何が起きたのかわからない。
わからないが、とにかく格好が悪いことだけはわかる。
「見ろ、消えたぞ」
「なぜ消える?」
「魔力切れか?」
「全軍が?」
「そんな馬鹿な」
「じゃあ何だ?」
「紙にやられたらしい」
「紙?」
情報の伝播が雑である。
だが雑なままでもだいたい合っているのがひどい。
かの人、魔導士団長ベルンハルト・ゼイムは、演習場中央の指揮壇で、人生でもかなり上位に入る顔をしていた。
怒っている。
焦っている。
認めたくない。
全部、顔に出ている。
「基礎陣を切り離せ!」
と彼は怒鳴った。
「応用節のみで起動しろ! 現場判断で回せ!」
だが、現場判断で回るなら、誰も最初から苦労はしない。
副官が青ざめたまま答える。
「不可能です! 全系統、起動安定化と照準補助で基礎術式を噛ませています!」
「ならば旧式を使え!」
「旧式も同じです!」
「里の古流術式は!」
「訓練系統に組み込んでおりません!」
「何故だ!?」
「効率化です!」
「効率化?くそ、裏目だ!」
大変にもっともな叫びだった。
効率化とは、たいてい便利だ。
そして、便利なものほど止まった時の被害が大きい。
そのとき、上空に伝達用の光が走った。
本部天幕からの緊急招集。
ベルンハルトは法衣の裾を翻し、本部へ向かう。
その後ろ姿を、兵たちがなんとも言えない顔で見送る。
「どうするんだ?」
「とりあえず槍を持つか」
「魔導兵なのに?」
「今日は歩兵だ」
「降格、早いな」
演習場の一角では、補給隊が慌てて倉庫から矢束を運び出していた。
魔法を前提に組まれた精鋭の軍が、急に筋肉へ回帰する光景は、もはや悲劇というより喜劇である。
もっとも当事者は笑えない。
あるいは笑うしかない。
本部天幕には、すでに帝国の主要人物が集まっていた。
軍務大臣グラハム。
参内してきた重臣たち。
顔色の悪い秘書官たち。
そして――皇帝の使者。
本人ではない。
だが、本人の機嫌をそのまま人間にしたような顔をしている。
「状況を説明しろ」
使者が言う。
誰も一瞬で答えられない。
答えにくいのだ。
「ええと、追放した元審査官の個人名義特許に基づく包括ライセンスが」
「短く」
「切れました」
「短すぎる!」
怒鳴られる秘書官。
その横でグラハムが胃を押さえている。
「で、解除条件は!?」
使者が続ける。
「差止の解除条件は何だ!」
ここで、別の封書が差し出された。
内容はもっと具体的だった。
無断実施の即時停止。
既存使用分の精算。
今後の実施については正当対価を伴う個別または包括ライセンス契約の再締結。
加えて、権利侵害を理由とする一連の行政処分の見直しと、今後の制度整備に関する正式協議。
破壊ではない。交渉決裂でもない。
条件提示だ。
使者が読み上げ、最後の一文で止まる。
「……“私は国家を壊す意思を持たない。ただし、無断使用は止める”」
天幕の中が静まった。
グラハムは口をぱくぱくさせた。
金魚みたいだな、と秘書官の一人が不謹慎にも思ったが、もちろん顔には出さない。
使者が低く問う。
「つまり、相手の目的は何だ?」
「つ、つまり、正当な対価かと……」
と参謀補佐官が答える。
「および、制度的地位の回復、ないし再定義」
「国家への報復ではなく?」
「文面上は」
「文面上か」
「かなり丁寧に、文面上は」
そこで、ずっと黙っていた帝国法務参謀ユリウス・ヘルムが一歩出た。
相変わらず細い。
相変わらず長い。
しかし今日は少しだけ、冷蔵庫に人間味が戻っている。
「相手方の目的は破壊ではありません」
とユリウスは言った。
「最初から、そう読める文面です」
「なら何故こうなる前に止めなかったのだ?」
使者が刺す。
「私の任務は法的防御でした。政治判断までは」
「便利な言い逃れだな」
「法務官僚は便利でなければ務まりません」
ユリウスは、ちょっとだけ言い返した。
みんな疲れているのだ。
その頃、自由都市ランツェでは、灰鷲亭の食堂に人だかりができていた。
「止まったらしいぞ!」
「何が!」
「帝国軍の魔法が!」
「全部か!?」
「全部は言いすぎだが、大体全部だ!」
「何したんだ、あの四階の客?」
宿の主人は腕を組み、わざとらしく咳払いした。
「無許可で使うなって話だ」
「宿の張り紙みたいだな」
「本質は同じだろ」
アレクシアはその騒ぎの中心にいなかった。
彼女は四階の部屋で、机に向かっていた。
窓から遠く帝都方面の空を見やる。
もちろん、ここから演習場が見えるわけではない。
だが、見えなくても状況はわかる。
止まった。
そして今、向こうは大混乱だ。
机上には送達記録、差止通告書控え、対価算定表の草案、再ライセンス案の骨子。
やることは多い。
国家を止めた朝でも、書類仕事は減らない。
「先生」
背後で声がした。
振り向くと、セルヴィンが立っていた。
痩せた男だ。
髪は少し乱れ、旅塵が肩に残っている。
だが襟元だけは妙にきっちり整っている。
実務官という生き物は、どんな状況でもそこだけは直すものだ。
「よく入れましたね」
「宿の主人に三度問い詰められました」
「どうやって通りました?」
「最後は“書類仕事が得意そうな顔だ”と言われて通されました」
「的確ですね」
「不本意です」
セルヴィンは机へ封筒を差し出した。
「本部天幕の混乱状況、概略です。軍務省内部の温度差、重臣側の見解、参内使者の発言記録。あと、宮廷魔導士長が今かなり面白い顔をしています」
「最後だけ感想ですね」
「ご褒美になるかと思いまして」
「助かります」
その淡々とした応酬に、セルヴィンの口元が少しだけ緩む。
「先生」
「何ですか」
「本当に、止めましたね」
「契約どおりです」
「そういうところですよ」
「褒め言葉として受け取ります」
「半分だけですが」
同時刻、帝都。
宮廷魔導士長ベルンハルト・ゼイムは、ついに使者の命で自由都市へ向かうことになった。
和解条件の確認。
差止解除の交渉。
そして、たぶん屈辱。
馬車の中で彼は終始無言だった。
向かいに座る同行者、法務参謀ユリウスも無言だった。
気まずい。
とても気まずい。
先に口を開いたのはベルンハルトだった。
「貴様」
「何でしょう?」
「最初から、こうなるとわかっていたのか」
「最悪の場合として、想定はしていました」
「なら、何故もっと強く止めなかったのだ?」
「政治部門が聞かなかったのです」
「……」
「なお、私の進言書は三通却下されています」
「早く言え」
「言いました」
ベルンハルトは天井を仰いだ。
人はだいたい、帝国の未来が心配になると上を向く。
灰鷲亭に帝国の使者が着いたのは、日がかなり高くなってからだった。
宿の前に止まった馬車は、自由都市の雑多な通りで浮きまくっていた。磨きすぎた車輪、重すぎる紋章、態度の大きい従者。市場の子どもたちが遠巻きに見て「あれ高そう」と囁く程度には場違いである。
宿の主人が鼻を鳴らした。
「うちの前だけ急に帝都くさくなったな」
「換気してください」
とアレクシア。
「無茶を言うな」
応接に使われたのは食堂の一角だった。
灰鷲亭には立派な会議室などない。
だが煮込みの匂いがうっすら残る空間で帝国の命運が話し合われるのは、それはそれで象徴的だった。
皇帝の使者が一礼し、言う。
「ヴァルネイ殿。皇帝陛下は、差止の解除条件について正式に伺いたいと望まれている」
「書面のとおりです」
「改めて、口頭で」
「正当な対価を伴う再ライセンス契約の締結」
「ほかには?」
「侵害の前提となった行政処分の是正」
「復職を求めるのか」
「いいえ」
使者の眉が動く。
「求めるのは」
アレクシアは答えた。
「法と契約が、誰かの都合で踏み潰されない制度です」
食堂の空気が少し凍った。
宿の主人はカウンターを拭くふりをしながら耳をそばだてていたし、給仕の娘は完全に聞き耳を立てていた。すごく行儀は悪いが、気持ちはわかる。
使者が問う。
「国家を止めてまで?」
「止めたのは国家ではありません。無断使用です」
「だが結果として」
「結果と目的は区別してください」
「……」
使者は黙った。
論として通っている。
通っているから面倒なのだ。
「では」
使者は低く言った。
「条件が満たされれば、差止は解除されるのだな」
「ええ」
「帝国を屈服させることが目的ではない、と?」
「最初から違います」
「ならば、なぜここまで?」
アレクシアは静かに言う。
「私はただ、仕事をしただけです」
その言葉には、達成感よりも、少しだけ疲れがあった。
長い夜のあとに残る静けさみたいな疲れだ。
交渉の後半、食堂の扉が開いて、ベルンハルトが入ってきた。
場の空気が変わる。
アレクシアと会うのは、帝都の法廷以来である。
敵役の再登場としては十分すぎる絵面だ。
ただし以前ほどの華はない。
今日は法衣もどこか乱れ、肩章は重たそうで、顔には寝不足と屈辱が並んでいる。
「……貴様」
ベルンハルトが言う。
アレクシアは座ったまま見上げた。
「お久しぶりです、魔導士長閣下」
「もう魔導士長ではない」
「そうでしたか」
「今朝から、肩書きがだいぶ軽くなった」
「そうでしょうね」
宿の主人がカウンターの向こうで小さく「そりゃそうだ」と呟いた。
誰も咎めなかった。
ベルンハルトは数歩進み、机越しにアレクシアを見た。
怒鳴る気力は、もう残っていないらしい。
「貴殿の魔法は」
アレクシアが先に口を開いた。
「そもそも誰のものでしたか」
ベルンハルトの顔が強張る。
最初の因果が、ここで戻ってくる。
「私は……」
ベルンハルトは言いかけ、止まった。
「私は、国家のために……」
「問いに答えてください」
静かな声だった。
だが逃がさない声でもあった。
「その魔法は、あなたが無から生んだものですか」
「……」
「基礎陣は?」
「借りた」
「照準補助は?」
「参照した」
「起動安定化は?」
「既存術式を下敷きにした」
「つまり」
アレクシアは言った。
「貴殿の魔法は、最初から誰かの技術の上に立っていた」
ベルンハルトは拳を握った。
怒りではない。
たぶん、羞恥と理解が半分ずつだ。
「私は……」
「強い魔法を作りたかった?」
「……ああ」
「帝国のために?」
「そうだ」
「なら、なおさら筋を通すべきでした」
「……筋を?」
「他人の貢献と権利を認めることです」
言い返せなかった。
この男は傲慢だった。
だが馬鹿ではない。
だから今、負けたことの意味だけはわかっている。
長い沈黙のあと、ベルンハルトは低く言った。
「……すまなかった」
食堂がしんとする。
宿の主人が拭いていた皿を落としかけ、給仕の娘が目を丸くし、セルヴィンは「珍しいものを見た」という顔をした。
アレクシアはほんの少しだけ目を伏せた。
「謝罪は記録に残してください」
「最後までそれか」
「重要です」
ベルンハルトの口元が、ようやく少しだけ歪んだ。
敗者の苦笑いだった。
午後、交渉はまとまった。
帝国は正当対価を支払う。
包括ライセンスは新条件で再締結へ向かう。
侵害前提で行われた処分は見直される。
そして、今後の魔法知財制度の整備について、正式な協議が始まる。
国家は止まり切る前に、どうにか座り直した。
その知らせが帝都へ飛び、演習場の混乱がようやく収まり始める頃、灰鷲亭の食堂ではやっと遅い昼食が出ていた。
「結局」
宿の主人が煮込みをよそいながら言う。
「お前さん、国を潰したかったわけじゃないんだな」
「最初からそう言っています」
「でも絵面はだいぶ潰してたぞ」
「合法的に止めただけです」
「その言い方、何回聞いても怖いな」
そこへ、また伝達の光が窓辺に瞬いた。
今度の使いは短い。
だが私信用の符式だ。
セルヴィンが受け取り、封を見て少しだけ表情を変えた。
「先生」
「何ですか?」
「問合せです。……ですが、これは文面ではなく、私自身の問いとして聞いてください」
彼は紙を差し出さず、自分の口で言った。
「課長、お戻りになりますか」
食堂の空気が柔らかく静まる。
宿の主人も、給仕の娘も、長老も、ベルンハルトでさえ、なんとなく答えを待った。
アレクシアは少し考えた。
帝都へ戻る。
審査官へ復職する。
前と同じ机。
前と同じ棚。
前と同じ朱肉。
たぶん、できる。
たぶん、望めば通る。
けれど。
「いいえ」
彼女は言った。
「次は、私が法を作る側に回ります」
セルヴィンが息を吐く。
驚いたようで、しかし納得もしている顔だった。
「そう言うと思っていました」
「でしょうね」
「審査する側では、もう収まらない」
「収まらないわけではありません」
「では」
「でも非効率です」
ああこの人だ、という顔を、その場の全員がした。
長老が杖を鳴らして笑う。
「それがよい」
「そうですか」
「法を作る者に、少しくらい嫌な女がいたほうが均衡が取れる」
「少しかよ?」
と宿の主人。
「かなりだろ」
「同意します」
とセルヴィン。
「おいおい」
そこでようやく、食堂に笑いが広がった。
騒ぎのあとに来る、軽い笑いだった。
生き延びた側の笑いでもある。
夕方、帝国の使者たちが去り、灰鷲亭がいつもの騒がしさへ戻ったあと。
アレクシアは四階の部屋へ戻った。
窓の外には、自由都市の夕暮れ。
市場の屋根。
煙。
遠くの丘。
騒々しい人の営み。
机の上には書類が積まれている。
差止通告書控え。
和解協議申込書の写し。
対価算定表。
制度論点整理。
そして、その脇に新しい一冊が置かれていた。
表紙に、整った文字。
《魔法基本法・私案》
アレクシアはそれを見下ろし、椅子へ座った。
達成感はある。
わずかな寂しさもある。
審査官としての机は、もう戻らない場所になったのだと、ようやく実感した。
「……私はただ、仕事をしただけです」
そう呟いてみる。
部屋は静かだった。
下の食堂の笑い声が、かすかに上がってくる。
机の端には、第一回から使い続けた印章が置いてあった。
朱肉の赤は、夕日を受けて少しだけ柔らかい色に見える。
国家を止めた印。
次はたぶん、国家を組み直すための印になる。
アレクシアは新しい草稿を開いた。
最初の頁はまだ白い。
だが、その白さは空白ではなかった。
次に書くべきことが、もう山ほどある白さだった。




