やさしさの輪郭
「エース家電お客様相談センター、橋田でございます」
朝イチの電話から、奈々子はお決まりの怒鳴り声に応対していた。今日は洗濯機の音がうるさい件。説明書がわかりにくい。保証書が見つからない。
(もう、保証書が勝手に歩いて逃げたってことにしようかな…)
なんて、心の中でくだらない冗談を浮かべながらも、口調は明るく丁寧に。
「申し訳ございません。担当の者より折り返しご連絡させていただきますね」
ふぅ、と息をついた瞬間、背後から声が飛ぶ。
「奈々ちゃん、今の相手…声大きかったね。大丈夫?」
田町恵美。45歳、勤続10年。ほんわかしていて、人に気を使いすぎるくらい優しい先輩。
「うん、もう慣れっこです。恵美さんの優しさ、しみます〜」
「いやいや、奈々ちゃんの方がすごいって…あ、ちょっとお茶もらってくるね」
そう言って給湯室へ向かう恵美。そのあとを追うように、森下真美がふらりと立ち上がる。
給湯室の静けさの中、湯気とともに、森下の声がぽつりと漏れた。
「…この前ね、橋田さんに“ちゃんと仕事してください”ってきつく言われちゃって…」
「えっ、奈々ちゃんに?そんな、奈々ちゃんが…?」
恵美の手が止まる。
「ううん、私が悪いのよ。確認不足だったし、メモも取ってなかったし…でもなんか、最近ピリピリしてるっていうか…橋田さん、ちょっと変わったよね」
「……」
「いや、ほんと私なんかのせいで空気悪くなってたらごめんね。私、昔からどこでも浮いちゃうタイプだから…」
自分を下げて、自分を責めて、最後に小さく「でも…」を添える。その“でも”の中に、誰かへの否定がそっと混ざっている。
「森下さん、そんなことないですよ。頑張ってるの、ちゃんと見てますから」
恵美の声には迷いがない。そう、信じてしまうのだ。
森下の語り口は、決して強くはない。むしろ、にじむように、じんわりと胸に沁みてくる。
給湯室を出るとき、森下は恵美に小さく笑って言った。
「ありがとうね。恵美さんみたいな人がいてくれて、救われるよ。…あ、こんなこと、ここだけの話だからね?」
“ここだけの話”――その言葉に、恵美は自然と口をつぐむ。
でも、心の中には、さっきの一言が静かに残っていた。
橋田奈々子のことを、ほんの少しだけ「怖いかも」と思ってしまった、その感情と一緒に。
午後、電話対応がひと段落した頃。奈々子がコール記録を整理していると、隣から声がかかった。
「奈々ちゃんって、ほんと仕事できるよねえ。返答も早いし、敬語もきれいだし…私、毎回メモ見ながらあたふたしちゃって…」
森下が、ため息まじりに言う。
「いえいえ、そんな…私もよく噛んでますし、記録も間違えることありますよ」
そう言いながらも、奈々子はやっぱり褒められると少し照れてしまう。
森下は、そのまま自分のメモ帳をめくった。ごちゃごちゃと走り書きされた内容。日付の抜け、名前の間違い、内容がかすれて読みづらい。
「この間も、同じ人に二回電話しちゃって…“さっきも話しましたけど?”って怒られて…あぁもう私って、ほんとダメだなあ」
奈々子が何か言おうとしたとき、少し離れたデスクから田町恵美がふわっとやってきた。
「森下さん、大丈夫ですか?さっきの電話、長かったですよね」
「うん…でも、やっぱりうまくできなかったみたいで。お客様、ちょっと不機嫌になっちゃって…」
「そんなの誰にでもありますよ。私なんて、まだ夢で電話鳴ってますから」
ふふ、と恵美が笑うと、森下もつられて笑った。
「ありがとね…ほんと恵美さん、優しいよね。だからここまでやってこられたのかも」
「森下さんこそですよ。みんな森下さんのこと、頼りにしてるし…」
奈々子は、ふとその言葉に違和感を覚えた。
(頼りにしてる…?)
もちろん、面と向かって否定するほどのことじゃない。ただ、森下の仕事ぶりは、決して“安心して任せられる”というものではない。
でも、今この場でそれを言えば、空気が濁る気がした。
だから、奈々子は黙って笑うしかなかった。
「私なんてほんと、ここにいていいのか分かんなくなるとき、あるんだよね…」
森下は、あくまで“自分が一番つらい人”のような顔で、そうつぶやいた。
そしてまた、その一言に、恵美はそっと手を差し伸べるように言った。
「森下さんがいるから、助かってる人、いっぱいいると思いますよ」
その言葉に、森下は何も言わず、小さくうなずいた。
奈々子は、その様子を横目に見ながら――なぜか、ほんの少しだけ、胸の奥がざわついていた。
ほんの小さな一言。
誰かを責めるわけでもなく、自分を少し下げて、ふと漏れる“気遣い”のような言葉。
でもそれは、じわじわと相手の輪郭をゆがめてしまう。
“やさしさ”が、いつのまにか、見え方を変えていく――そんな始まり。




