72:襲来、母
一夜明けると、一途は変な体制で寝ていた。
目を覚ますと、電気をつけたままだしパソコンも開きっぱなしで小さな背もたれのある座椅子に座っていた。疲れからか、遥を家に帰してからあまり記憶がない。 それに少し腹に殴られたような痛みが走る。
「まじか、まだ4時じゃん」
外はまだ少し明るいくらいだ。だけど、俺はもう寝ていられない。
なぜなら、俺にはやらなければいけないことがあるからだ。
「配信用に買った防音シート、とりあえず壁に張るか」
遥を迎えに言ったせいで、1mmも進まなかった作業を進めていく。
ビニールをはがしていき、シートを壁に貼り付ける。これなら敷金とかもいらないし、卒業したときに引っ越しても使えるだろうし。
「ん? 日の出かな」
窓から少しずつ明かりが漏れ出してくる。て言っても、まだまだ時間があるからゆっくり貼り付ければいいかなと思う。淡々と、壁にシートを張り付けていく。
「よし、準備はオッケーっと。ちょっと換気しよ。 おお! いい天気じゃん」
空はすでに朝を迎え、快晴につつまれていた。絶好の配信日和といえる。
まずは個人としてやっていくしかない。事務所に入るとかは後から考えよう。
「配信のテストがてら、押崎さんと話しようっと」
開くのは押崎さんと見つけたアバターを利用してチャットができるアプリ「アバトーク」
配信アプリとしても価値はあるが、互いの顔とかを知らないまま仲良くなれるという点で少し話題になっている。
「って言ってもまだ6時だし、まだ寝てるしょ。アーカイブでも見るか」
Utubeを開くと、サジェストに出てくるのはVが猫耳の姿となって猫と戯れるサムネが多くなっていた。
なんか話題のゲームでも出たのか? 俺は、ジル・デ・ジルコニアのアーカイブを開いてみることにした。 登録者100万のVtuber......。一体、何者なんだ。
『はーい、こんばんは。ときめく夜にようこそ、子猫ちゃん......。フフフ、ゆーらいぶ所属の輝皇子ジル・デ・ジルコニアだ。......朝、目覚めると僕は猫になったんだ』
少しハスキーで儚げな声が特徴的な彼?彼女?は、印象的な導入でゲームの世界に入り込む。
自分もその世界の観測者になったかのような感覚に襲われ惹きこまれた。これが、彼女の魅力......?
『にゃー! ネコかわいいねぇ! グラすごいし』
急にIQが下がり、可愛らしい声を操作している猫に話しかける。彼女の言葉にコメント欄は踊り狂う。
それは男女関係なくに......。
「ひえええ。恐ろしい子......。こんな可愛らしい声も出せるし、序盤みたいに王子様みたいな声も出せる。声優さんかよ」
世界を猫として探索するだけのゲームなのに見どころがいっぱいある。背景は現実と見間違うほどのグラフィック。今のゲームはここまで進化しているんだと思った。
「この猫ちゃんたち、どこへ行きたいのかな? 私はどこへでもついていくぞ? やっぱりこの世界のグラフィックは素晴らしい」
聞き掘れていたらもう8時か。といってもまだ8時。しかも土曜日。といいつつもスマホを見ると、押崎さんから連絡が入っていた。
「もう起きてる?」
端的な言葉だった。彼女は先ほど起きたのか、いつも以上に静かな印象にも見える。
「起きてる。アバトーク入れる?」
「おっけー」
彼女の合図とともに俺はワタシとなる。アプリを起動させると、プロファイルで読み込ませてあった『鯨鮫おるか』がインカメで動き出す。
「どう? 動き変じゃない?」
首を横に傾げたり、振ったり体をゆらゆらと揺らしてみる。すると、映ったおるかも同じ動きをしているように見える。
「うんうんいい感じ!」
クマのぬいぐるみのような見た目になった押崎さんは、目を細めて笑いながら首を縦に振っているのだろう。クマがそれに対応して顔を変えている。すごいなこのアプリ。若干重いけど......。
「これならなんとかなりそうかな」
「配信上手くいくといいね。本番は、チャットだけだけど私も顔出すと思うから。それで、声はどうするの? 遥君みたいに地声?」
「いやいや、あんな才能ないよ。俺はチェンジャー使う」
ふーんと言いつつ少しご不満なご様子。だが、俺の声は遥のように自由自在じゃない。声も低いし、女性的でもない。鯨鮫おるかのイメージとは少し離れている気がするのでなんとかボイスチェンジャーでイメージに合わせるしかない。
『こんな声もでるんだよ? どう?』
「ほーん、でもやっぱ機械的という感じは否めないなぁ」
『まぁ、そこは技術の問題というか......。難しいよぉ、むぅ』
「お姉さんきっしょ」
「すいませんでした」
話し方はもう少し気を付けた方がいいな。とりあえず、準備はオッケーだ。後は初配信の時間まで時間をやり過ごそう。やることはもう決めている。ご挨拶と、今後の予定についてだ。
「外の空気吸うか」
ジーパンとポロシャツに着替えて家を出ようとしたとき、玄関には俺より少し体の小さな女性が立っていた。風貌は俺に似て目つきが悪くて、俺と違って髪がさらさらだ。
「一途、出かけるの?」
「母さん? なんで?」
「いやね、明日キンちゃんのライブなんだけど。ウチより断然あんたん家の方が近いから泊めてもらおうと思って......」
なんで今に限って母親がくるんだよ! 報連相はどうなってんだ報連相は! と、眉間を手で押さえながら対策を考える。これは災害だ。要はこの困難を乗り越えてこそのVtuberだ。
「今日は都合が悪いから帰ってくれないか? 母さん」
「謹んでお断りします。母親を野宿させる息子がいるものですか。おじゃまー」
のしのしと容赦なく入っていく様子はさながら怪獣だ。怪獣よりたちが悪いかもしれない。
「あらら、なにこの部屋。もしかしてキンちゃんみたいにゲーム実況でもするの?」
母は自分が張り付けた防音シートをペタペタと触ったり、パソコンの前に置かれたマイクやヘッドホンを触りながら俺に顔を向ける。俺は母親の手をどかして話をそらしてみる。
「実況? いや、そもそもキンちゃんて誰だよ」
「ザ・デニーズの宍倉キンタロウよ。友達から教えてもらってね」
なんじゃこりゃ。これはVtuberなのか? みると、イラストの立ち絵と共に二次元の顔と3次元の普通の身体が融合しているように見える。一体どうなってんだ?
「なぁにこれ。母さんもVtuberにハマってんの?」
「そんなアニメのキャラみたいじゃないわよ。覆面アーティストってやつよ」
「はぁ。まあ、なんでもいいけどとにかくここはダメだ。今からゲーム実況するんだから」
とりあえず、実況に対して寛容ならこのまま実況を撮るということにして、その間だけでも別の場所にいてもらえばいい。
「大学生もチャレンジャーね。私も見学していい? キンちゃんほどかっこよくはないけど息子の頑張ってる姿みたいじゃない?」
実況ならいいけどよお。配信だぜ? 無茶にもほどがあるだろうよ。俺は天を仰いだ。
ああ、誰かこの人を遥か遠い空の惑星へ連れて行ってくれ。
母親が見守る中配信が始まる。
そのころ、遥はそんなことも知らずに「鯨鮫おるか」の配信を見つける。




