第二十二話 葛藤
気が付けばカエラちゃんの家の前にいた。でも明かりは点いていなかった。バイトなのだろう。
「……なんで俺、ここに来たんだ」
ドアにもたれて座り込んで膝を抱く。身体の震えは止まらないし、叫び過ぎたせいか喉も痛い。
誰かの温もりが欲しい。そんな時、カエラちゃんの顔がふと頭をよぎった。だからここに来た。でも彼女はいなかった。
しかし良く考えてみると、こんな俺をカエラちゃんが見たとしたら、多分平静ではいられないだろう。
それに今の俺は危ない。アイにそうしたように、カエラちゃんにも手慰みを求めてしまうかもしれない。だから会わない方がいい。
携帯の画面に映る時刻はちょうど午後10時を指していた。今頃は深夜組に引継ぎをしているところだろう。つまり、もうすぐ帰ってくるという事だ。
「……行かなきゃ」
彼女の好意に甘えてはいけない。どうしてそう思ったのか分からなかったが、とにかくカエラちゃんが戻ってくるまでに姿を消さなければ。
幸い、雨は上がっている。今のうちにと、俺はふらつく身体を正してバイクを走らせたのだった。
玄関先の雨水で作ったシミが、何者かがここに居たという証拠を残してしまっていたが、俺にはどうする事も出来ず、心の中で謝罪するしかなかった。
◆◇
あれから一週間、俺は病床に伏せっていた。まあ当然だろう。あれだけ真冬の雨に打たれたのだから。病院にも行っていない。止むを得ない買い物以外は、一歩も外に出たくなかったから。
「……ひっでえ顔」
朝。洗面台に立ち鏡ごしに見るやさぐれた男。目の下の隈が酷い。濃くはないが、流石に一週間も放っておくと無精髭もそれなりに生えてくる。
学校は既に始まっていたが、初週は休むハメになった。バイトも休んだし、加えてスカイハイの練習も既に2回、断りのメールを麻衣に送っている。未來ちゃんやアイと話せる程、今の俺は強くない。風邪をひいたのは本当にラッキーだった。
不健康を喜ぶなんて、俺終わってんな。
この一週間何をしていたかというと、特に何もしていない。ギターも弾いちゃいない。最早人生の一部と言って良さそうな音楽も、病んだ身体には耳障りな不協和音でしかなかった。
昼。断りのメールすら億劫になっていた俺は今日、ついに無断で練習をサボった。まだ本調子でないのは勿論、裏切り者の巣窟に行ったところで精神的に耐えられそうになかったから。
麻衣から2度、未來ちゃんからは1度だけ電話があった。それらは全て無視した。取れるわけがない。一体どんな対応をすれば良いのか、全く心の整理がついていないのだから。
因みにアイからは2回目の練習を休んだ時にメールがあった。「変な話してゴメンね」という内容のものだった。勿論返事はしなかった。
◇◆
夜。一週間ぶりに髭を剃った俺は、午後10時からのバイトに顔を出した。
レジカウンターの中にいたのは吉田カエラだった。入ってきたのが俺だと気付くと、彼女は視線を落とし小さな声で「おはようございます」と言った。それからすぐに後ろを向いて雑務を始めてしまった。
そういえばカエラちゃんの告白の答えをまだ出していなかった。年も跨いでもう三週間近く待たせてしまっている。
カエラちゃんとの微妙な距離感。どうやら俺とは話しづらいらしい。元々は俺の曖昧な態度のせいなんだけど。
背後から彼女の落ち葉色のセミロングを流し見る。クリスマスイブの時は綺麗だったストレートパーマも、今はもう落ちかかっているようだった。それだけ待たせてしまっているのだ。
少しだけ罪の意識を感じながらバックヤードで着替える俺。
はあ、このままじゃ良くないよな。何か話しかけないと。でも何を?
考えが纏まらない内に、店舗の方にきてしまった。ここまできたら、通常の業務をこなすしかない。
レジカウンターではカエラちゃんが客を捌いている所。さりげなくヘルプに入る。暖めた弁当をレンジから取り出して袋に入れて声を張った。
「お待たせいたしました、ありがとうございます。
……いらっしゃいませ」
引き上げるタイミングを掴めないカエラちゃんと2人で、数人分の会計をこなす事になった。ようやく一段落ついた時に、ジョークを交えて労いの言葉をかけた。
「お疲れさま。ちょっとだけサービス残業しちゃったね」
「……うん」
短い返事。彼女は前を向いたまま、隣りにいる俺の事を見ようとはしなかった。カエラちゃんの横顔は硬い。一体今、何を考えているのだろうか。
「じゃ、あがるね」
そう言って、カエラちゃんはバックヤードに消えて行った。
はあ、と肩を落として頭を掻く。なんか、やりにくい……これも待たせてる俺のせいなんだけどな。
なんとなく複雑な気持ちのまま、什器の肉まん類の補充をしていると、不意に声をかけられた。ヴァイオレットのダッフルコートに身を包んだカエラちゃんだった。
「風邪、もう良いの?」
「うん。もう大丈夫」
「そう、良かった」
そう言ってくれたカエラちゃんは、やっぱり伏し目がちだった。
「あのっ」
俺は思わず声をかけた。何か言わなきゃと思ったのだ。
「こないだの返事なんだけど……」
弾かれたように顔を上げたカエラちゃんが、息を呑んだ。猫の様な神秘的な瞳だった。
「悪いけど、もうちょっとだけ待ってくれないかな」
カエラちゃんの秘密めいた瞳が曇ったように見えた。それから、一呼吸の沈黙。
「うん……分かった。待ってる」
それでもカエラちゃんは、薄い唇を動かして俺の望み通りの言葉を返してくれた。
ほっ、とため息を吐こうとした時。彼女は逃げるように店を出ていった。落ち葉色の髪から垣間見えた表情は、とても苦しそうだった。
俺は……どうする事もできなかった。だって、自分の気持ちが分からなくなっていたから。
俺はどっちなんだ。カエラちゃんのコト、好きなのか? そうじゃないのか?
……くそ、こんな時に出てくるなよ、未來ちゃん。やっぱりキミなのか? こんなに辛い目にあっているのに、それでもキミなのか?
葛藤。惚れる恋か。惚れられる恋か。俺の気持ちは寄る辺なく、宙ぶらりんのまま時間だけが過ぎていく。
心の底から愛してる未來ちゃんか。こんな俺を好きと言ってくれるカエラちゃんか。分からない。
だけど、ひとつだけ気付いた事がある。さっきの後ろ姿を見て思った事。
俺、カエラちゃんに惹かれ始めてるかもしれない。なぜだか分からないけど、手を出して引き止めたくなったんだ。でもこれって、恋なんだろうか。単にラクな方に逃げてるだけなんじゃないか?
まるでメビウスの輪っかだ。恋愛と音楽。何が自分にとって最良か。うわの空で仕事は殆ど手につかなかった。
◇◆
1月も半ば。この日は雪が降っていた。気温も相応に低い。
俺はまたも練習をサボった。風邪は治ったものの、どうにも足が向かないのだ。暇を持て余した俺はゲームばかりの日々を送っていた。
「あ〜、つまんね」
布団に寝転がり携帯ゲーム機を投げ出した。
「これでサボったの4回目か。怒ってるだろうな、みんな」
天井を見つめてスカイハイのメンバーの顔を思い出す。申し訳ないという思いと意固地な気持ちがせめぎ合う。
「このまま、辞めちゃおうか。バンドも、恋愛も」
自暴自棄になっていたその時、携帯の着信音が鳴り響いた。
途端に上がる心拍数。身体は正直だ。取るべきか否か悩んでいる内に、音は鳴り止んだ。
画面に表示されている【不在着信 香坂未來】の文字。
それすらも愛おしい。そして同時に、憎しみをも抱いてしまう。
未來ちゃん。カエラちゃん。スカイハイのメンバー。次々と思いが駆け巡る。
俺は……一体どうすればいいんだ。
突然、玄関のチャイムが鳴った。布団から起き上がり、のぞき穴からそっと様子を窺う。俺は息を呑んだ。
そこに見えたのは、ハニーピンクのコートに身を包んだ、ウェーブがかった栗色の髪の女の子だった。




