第二十三話 ドアの向こう
ドアを一枚隔てた向こうに、思いもしなかった訪問者。栗色ウェーブのセミロング。ハニーピンクのコートに純白のマフラー。
ど
ど
ど
ど
ど
ど
どうしよう。なんで未來ちゃんがこんな所に?
ええとええと、俺はどうすれば——
「いるんでしょ?」
はぅ。
久しぶりに聞いた女神の声音。全身が歓びに打ち震える程のソプラノボイスに観念して、少しだけドアを開けた。
「み、未來ちゃん。よくここが分かったね」
「ヒロくんに聞いたから」
「そっか」
彼女の口からヒロの名前が出た事に傷つく。どうしても想像してしまうのだ、ヒロとの密会を。だがここは努めて冷静にふるまう。
「ちょっと待ってね、チェーン外すから」
一旦ドアを閉め、チェーンロックを外す。それなのにドアは開かなかった。いや、開かないというか、外から押さえ付けられているようだった。
「このままでいいわ」
ドアに隔てられて、くぐもった未來ちゃんの声が聞こえた。のぞき穴から窺うと、彼女の後頭部が見えた。ドアにもたれ掛かっているらしい。だから開かなかったのだ。
「……寒いよ?」
「だいじょうぶよ」
顔を合わせないなんて、何かがおかしい。いつもの未來ちゃんじゃないみたいだ。
「純クン、練習はしてる?」
「して……ないです」
「どうして?」
「あ、いや、その」
「やる気が出ないの?」
「あ……はい」
ぐおおおあ! 俺はなんて事を。これじゃ完全に悪者扱いだよ! もうバンドに戻れないよ!
「いやあの、やる気が出ないっていうか、そのなんていうか——」
「ワタシと寝たらやる気が出る?」
はああああ!? ちょっと、ナニ言ってるんだ未來ちゃんは? それじゃヤる気違いだよ!
「いやあのっ、どっどうしたのかな急にっ」
……どうして? どうして未來ちゃんは急にこんな事を言い出したんだ?
「答えて。純クン……ワタシと寝たらまたスカイハイのギター演奏ってくれるの?」
「お、俺は……俺は遊びでそんな事をするのは嫌だ。正直に言うと、未來ちゃんにもそういう事はやめてほしい」
これは本心だ。俺は未來ちゃんのカラダが目当てじゃないんだ。そして彼女には自分を大事にしてほしい。
ゴツンと音がした。多分未來ちゃんが頭をもたれさせたのだろう。
「——冗談よ。ふふ、純クンは優しいからつい、からかいたくなっちゃった」
なんだ……冗談に聞こえなかったけど。まだ胸の高鳴りが幾分激しい。軽い眩暈のような疲れを感じ、俺も彼女と同じくドアに背中を預けた。
「……ワタシね、どうして自分がこんななのかずっと悩んでた。ワタシという人間って一体何なのか、その答えをずっと探してたの」
未來ちゃんの伸びやかな声は玄関ドアという壁に阻まれ、少し聞き取りづらい。だけど俺は、一生懸命に耳を傾けた。
「ワタシはいつもひとりだった」
……ひとりって。そんな事なかった。彼女はいつも誰かといた記憶しかない。でも、未來ちゃんがそう言うのならそうなのだろう。
つまり言葉通りでなく、精神的にとか、そういう意味なんだろうと推測する。
「そしてワタシは、空っぽだった。それを誰かに知られるのが嫌でね、いつも気取った猫のように振舞っていたの」
未來ちゃんのあの魅惑的な雰囲気は、作りモノだったってコト、なのか?
「それは自分を偽る行為だった。あはは、苦しくなんてなかったよ。ただ、ひとりで過ごす夜は苦手だった」
未來ちゃんの独白。なんでこんなコトを俺に言うんだ。まるで懺悔する罪人みたいだ。
「でもそんな、何もないワタシにも出来る事がある。
人々に喜びや感動を与える事。それがワタシの存在意義。
ライブをやっていてそう思ったの。ココロとカラダ、全てをかけてやる価値のある事よ」
……知らなかった。ライブにかける意気込みは並々ならぬものがあると思っていたけれど、ここまで真剣に考えていたなんて。
「そのコトに気付かせてくれたのは、他でもない純クンだった」
「お、俺?」
「そう。純クンがスカイハイのギターをやってくれたおかげで、スゴく楽しかった。だから聴いてくれる皆にも、ワタシの歌が届いてたんだと思う。
……ありがとう」
まさか、そんな。未來ちゃんにそんな風に思ってもらえてたなんて。感動しいの俺にはアツすぎる言葉だ。
「純クンは感じたコトない? ステージでの高揚感とか、一体感とか。会場を支配する存在としての全能感を」
「……確かに、ライブでグルーヴを感じている時はすごく気持ちいいし、客の盛り上がりも違うと思う」
「そう。それはステージに上がった者だけが得られる、特別な感覚。たまらない蜜の味ね。
いちど味わってしまったら、あの感覚はそう簡単に忘れられるものじゃないわ。純クンもきっと同じだと思う」
確かにそうだ。身体の輪郭が融けて音と一体になるあの感覚。ステージから見下ろす聴衆の恍惚の表情。そして、未來ちゃんとさえ一つになれる、最高のフィーリング。全てはあそこでしか手に入らない。
コトンという音がした。未來ちゃんがある物をドアポストに入れたのだ。
「CDR?」
「スカイハイのリードギターは、やっぱり純クンだと思ってる……だけど。
これを聴いてみて。その上で純クンが辞めると決めたコトなら、ワタシは反対しない。
リミットは次の練習日。その時までリードギターの席は開けておくわ。
じゃ……行くわね、待ってるから」
ここまできて、俺はようやく気付いた。未來ちゃんは、俺がバンドを抜けないように説得しに来たのだ。その為に身の上話までして……気を使わせちゃったな。
おもむろに【四大合同ライブ‼】と書かれたタグが挟んであったCDRを拾い上げた。そのケースには、まだ未來ちゃんの温もりがあった。
その温もりが俺の心を無性に掻き乱す。愛しさと切なさがせめぎ合い、俺は思わずドアを開け放した。北風が俺の熱い想いを奪うように吹き荒れる。
未來ちゃんは愛車のジョルノに跨りエンジンをかけたところだった。
——未來ちゃん!
俺は駆けていた。何か伝えたい事がある。そう思って彼女の傍らに立った。
キョトンとした表情で見つめる未來ちゃんの瞳は、驚くほど綺麗で。普段の欺瞞に満ちた言動は、先の告白通り偽りの姿なんじゃないか、そう思える程に澄み渡っていた。
「未來ちゃん、俺、その……」
言葉が出なかった。悔しい。言いたいことも言えない自分が悔しい。苦悶に喘ぐ。そんな俺をジッと見つめる未來ちゃんが、不意にクスクスと笑った。
「このワタシが待っててあげるんだから、絶対戻ってきなさいよ……なんてね」
ペロッと舌を出す未來ちゃんは、やっぱり女神で小悪魔。その可愛さの余韻を残したままゴーグルを装着し、スロットルを回して走り去っていった。
結局、想いは伝えられないままだった。
未來ちゃん……!
はたと手にある感触を思い出す。未來ちゃんから貰ったCDケース。俺はそれをぎゅっと抱え込んだ。無駄だとは分かっていても……未來ちゃんの熱の余韻が消えないように。




