少女とマグロ1
彼女のスマホには、連絡先交換に使われるQRコードが表示されていた。財布を握ったままの手のひらが、じっとりと湿っていく。
二本戻れば交番がある。中にはまだ、あのマグロがいるかもしれない。
そう思ったとたん、さっき言われた言葉が今ごろになって腹の底に落ちてきた。
バカで助かったわ。
「お、お前こそバカかよ」
声が裏返った。
「俺はこれを交番に届けて、それで終わりだ。脅してるつもりかもしれないけど、届けてしまえばその写真だって無意味だ」
彼女はスマホを下ろすと、腰に手を当てて仁王立ちになった。笑っているのは口元だけだった。
「だから好きにしてって言ったでしょ」
それから、思い出したように付け足した。
「でも、今日からお札の抜かれたお財布が毎日、毎晩メダカくんのお家に届くことになるかもしれないけれど、私はそのおそろしい話とは一切関係がないから」
ついさっき、友人がベンチで拾った札だけ抜かれた黒い財布が頭に浮かんだ。勘弁してくれ。
「……この財布を渡したって、お前は同じことをするかもしれないだろ」
「私は関係ないって言ったでしょ。でもね。その恐れている事態にはならないんじゃないかな。犯人はきっと、メダカくんが思ってるほど悪い人じゃないから。うん」
彼女は白々しくそう言うと、手を後ろに組み、ふんふんと口ずさみながら頭を左右に揺らした。
なんなんだこいつは。なんで俺は後をつけたりしてしまったんだ。魚の念仏なんか無視すればよかったのに。
「……わかったよ。なんでこんな子供に脅されなきゃいけないんだよ」
観念して、財布を女の子に手渡した。
彼女はにっこり笑い、「メルシー」と言ってそれを受け取った。
「あとね。私は子供じゃないんだからね。十九歳だよ。十九歳。成人で大人なの」
財布の中から紙のようなものを取り出して、彼女はじっと眺めた。
何を見ているのか気になって、近づいて覗き込んだ。
古い家族写真だった。今より髪の多いマグロと、女の人と、ランドセルを背負った男の子が写っている。
彼女は、思ったより長くそれを見ていた。
「人の物を覗き込むなんて、メダカくんは好奇心旺盛だね」
そう言ってふふふと笑った。
「お前が言えるのかよ」
彼女は最後に写真のマグロ一家をわざとらしく俺に見せつけてから、マグロの財布のお札入れに演技じみた動きで戻し、そのままぐっと俺に押し付けた。
「やっぱり返そうかな。届けてきてよ。交番」
マグロ一家の顔を見て情でも湧いたのだろう。彼女が言ったように、案外悪いやつじゃないのかもしれない。
「――その代わり、一つか二つ、お願いを聞いてほしいんだけど。頼めるかな。頼めるよね。ありがとう」
どうせ断れないと思うと、肩がガクリと落ちた。
「……お願いってなんだよ。危ないことはやらないからな」
俺が力無くそう言うと、彼女は大袈裟に両腕を胸の前で組んだ。
「食物連鎖プロトコルだよ。メダカくんで鯛を釣る」
「鯛ってなんだよマグロじゃないのかよ」
彼女はふふーんと鼻を鳴らす。
「まずはメダカくんはこのお財布を交番に届けよう。話はそれから」
広場でのことを考えると鯛が人の事だというのは見当がついた。マグロに鯛か。寿司じゃあるまいし。
「……わかったよ。メダカメダカって呼ぶのは良いけど、お前の事はなんて呼べば良いんだ。名前くらい教えろよ」
彼女は空を見上げ、うーんと一度唸ってから俺に視線を戻す。
「私のことはナギって呼んで」
彼女の言葉を聞いて、本当の名前ではないんだろうと思った。少し気になったが、それを知ったところで俺の立場は何も変わらない。
「嘘くさい名前だな。じゃあ、さっきの交番にもどるぞ。それでいいか」
彼女はうんうんと頷いて、俺の横を歩き始めた。
「メダカくんは交番に行って、まだマグロがいたらこれをそのまま渡す。もう居なかったら、しっかりと拾得物の届出を書いて」
俺はマグロの財布を何気なく開いて中を確認した。中にはそれなりの額のお札といくつかのカードが丁寧に収められていた。
「結局、そのまま返すのかよ」
俺は一体何を脅されてるのかよくわからなくなってきた。
「メダカくんはわかってないなぁ」
ナギは歩きながら、肩にぶら下げた鞄から小さなノートのような物を取り出し、何か書き込み始めた。
俺は何をわかってないんだ。あいつには、何が見えているんだ。
「届けるのは良いけど、午後は講義があるからそんなに時間はないぞ」
彼女は不思議そうな顔を俺に向けた。
「講義ってなに。先生なの?」
誇れる話ではなかったが、隠しても仕方ないだろうと思った。
「俺は浪人もしたし留年も二回してる。先生どころかまだ学生なんだよ」
ナギは口元を手で隠してニヤニヤとした表情で俺を見た。
「無職かフリーターだと思ってた。まさか二十五歳でまだ大学生だとは。私を欺くなんてメダカくんもなかなかやるね」
こいつはいちいち癪に障ることを言う。俺は小さく「言ってろ」と、吐き捨てた。
「でも、尚更良いね。メダカくんとってもいいよ」
ナギはそう零すと立ち止まって前方に見えてきた交番を指さした。
「じゃあ、行ってきて。ここで待ってるから、終わったらすぐ戻ってきて」
交番には友人もマグロもいなかった。財布を拾ったと伝えると、警官は慣れた手つきですぐに拾得物の手続きを始めた。先ほど一度顔を出しているので、怪しまれていないか気になって仕方がなかった。
「最近は財布の届出がすこし増えていてね。ほとんどが現金が抜かれてるケースばかりだけど今回は大丈夫そうだ」
警官は手元にいくつかの書類を並べて、世間話でもするようにそう言った。脳裏にナギの姿が過る。
一通りの手続きを終えると、もう帰れとでも言うように警官は席を立った。
「わざわざありがとうございました。落とし主が見つかったら警察か、持ち主本人から連絡がいくかもしれないからその時はよろしく」
俺は軽く頭を下げてから交番を出て、ナギが待つ場所に向かった。離れたベンチに座っている彼女を見つけた時、既に視線は俺に向いていた。駆け足で彼女に近づく。
「届けてきたぞ。次は何をすればいいんだ」
ナギは立ち上がり右手の人差し指を立てた。
「コレからメダカくんには慎ましやかな苦学生になってもらいます」
彼女はそう言って不敵に笑った。




