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少女とメダカ

 駅前で人を待っていた。

 平日の午前中ということもあり、人通りはまばらで時間がゆっくりと感じられる。

 広場の端のベンチで、黒縁メガネの女の子が、俺と同じように人を待っているらしかった。高校生くらいだろうか。肩まで伸びた髪を指先に巻きつけながら人の流れを見つめて、なにやらブツブツとつぶやいている。

 学生ならこんな時間にいるのも妙だし、待ち合わせまでまだ時間があったので、好奇心で近寄ってみた。少しダボっとしたスウェットパンツに、ジャージの上着。動きやすそうな格好で、肩には小さな鞄を一つかけているだけだった。

 近くに来てわかった。彼女は目の前を人が通るたびに何かをつぶやいている。

 少し離れたところで聞き耳を立ててみると「アジ」「サバ」「アジ」「金魚」と魚の名前を呟いているようだった。

 人に対して言っているように見えるが、アジとつぶやかれた人は特に似ているようにも見えなかった。

「サバ」

「カツオ」

「カツオ」

 通りを歩く人々に次々と魚の名前が与えられているようだった。

「金魚」

「アジ」

「鯉」

「マグロ」

 そう呟き終わると、彼女は立ち上がって「まあ、マグロでいいか」と小さくつぶやいて、マグロの名を与えられた男の後をつけるように、歩き始めた。


 マグロの男は駅を背にして、商店街の方へ歩いていった。濃紺のスーツは遠目にも体に合っていて、肩から提げた革のバッグがやけに上等に見えた。

 彼女はその十メートルほど後ろを、急ぐでもなく歩いている。

 自分でも何をしているのかよくわからないまま、さらにその後ろをついていった。待ち合わせまではまだ時間がある、と自分に言い聞かせながら。


 信号をひとつ渡ったところで、彼女が急に足を速めた。男に追いつくと、何か話しかけたようだった。男が振り向き、彼女の方へ顔を寄せる。

 その瞬間、彼女の体がぐらりと傾いて、男の胸に倒れ込んだ。

 男は驚いたように彼女の肩を支え、抱え起こす。大丈夫ですか、と言ったのが口の動きでわかった。

 彼女は小さく首を振り、軽く会釈をすると、何事もなかったかのように男から離れた。

 そして、こちらに向かって引き返してきた。

 目が合いそうになり心臓が跳ねた。とっさに目を逸らし、スマホを見ているふりをする。足音が近づいてくる。

 一瞬、彼女の視線がこちらに向いた気がした。

 すれ違いざま、胸のあたりにわずかな衝撃が走った。

 振り返ったときには、彼女はもう人の流れの向こうにいた。


 立ち尽くしたまま、自分の足元を見た。

「なにやってんだろ、俺」

 平日の昼前に、女の子の後をつけている男。どう考えても気持ち悪い。

 急に恥ずかしくなって、はあとため息をついた。

 待ち合わせの時間も近いし駅前に戻ることにした。


 広場に戻ると、友人はすでに到着していた。

「悪い、待たせた」

 俺の呼びかけに気がつくと友人は「おう」と小さく手を挙げた。

「――いや、今来たとこ。それよりさ、これ拾っちゃって」

 友人は手にした黒い二つ折りの財布を振ってみせた。

「そこのベンチに置きっぱなしでさ。札だけ抜かれてて、カードは全部残ってんの。気持ち悪いよな」

「交番に届けてくるわ。すぐそこだし、付き合って」


 交番に入ろうとして、足が止まった。

 中で警官と話しているのは、さっきのマグロだった。

「さっきまであったから、この辺に落としたはずなんだよ、白い革を編みこんだやつ」

 どうやら財布を落としたらしいが友人が拾ったものとは違うみたいだ。

 淡々と話す男の顔に焦りの色はない。仕立ての良いスーツに、ブランド物のバッグ。財布ひとつなくしたくらいでは困らないのだろう。

 なんとなく自分の財布が気になって、上着の内ポケットに手を入れた。指先に、覚えのない革の感触があった。

 裾を捲りそっと確認してゾッとした。

 白い革製の高そうな財布がそこにあった。

 裾を固く閉じるように素早く手のひらで押さえ込んだ。

 一瞬で、マグロと警官のやりとりが意味を結ばなくなった。鼓動がみるみる速くなり、視線が交番中を泳いだ。


 なんだよこれ。


「……ごめん、用事思い出した」

「え、今かよ」

 友人の声を背中で聞きながら、交番を離れた。走りたいのを我慢して、早足で角を曲がる。


 なんなんだよこれは。

 あの女か。それ以外考えられない。

 どういうことだよ。

 とにかくこれをなんとかしないと。


 駅から二本裏に入った路地で、ようやく足を止めた。ポケットから財布を取り出す。全く見覚えのない白い革の長財布。

 本当にあの男のものなのか、確かめないと。

 留め具に指をかけたとき、背後でパシャリと軽い電子音が鳴った。

「交番に向かったときは、さすがに焦ったけど」

 振り返ると、あの女の子が立っていた。スマホをこちらに向けている。

「バカで助かったわ」

 画面には、路地で財布を開こうとしている俺の姿が写っていた。

「あんた、広場から後をつけてたでしょ。気がつかないとでも思った?」

 何も言えなかった。

 彼女は手のひらを差し出した。

「それ返して。私のだから」

「違うだろ。交番にいた、あのマグロのだろ」

 自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。

「もう私のだから」

 彼女は表情ひとつ変えずに言った。

「まあ、あんたが返しに行きたいなら好きにして。私もこの写真を好きに使わせてもらう」

 財布を握る手に力が入った。

「なんで俺に……」

「あんたがつけてきたからでしょ。保険ってのはどこの世界でも必要なの」

 彼女は少しだけ笑った。

「でも、おじさんみたいな″メダカ″からは獲らないから安心して。えーっと」

 彼女は自分のカバンから、見覚えのある財布を取り出した。中から免許証を抜き出して、読み上げる。

「足立区に住んでるんだね。ずいぶんと安っぽい名前のアパートに」

 慌てて全身のポケットを確認するが、どこにも見当たらない。マグロの財布に動転して、自分の財布のことなど考えられなくなっていた。

 胸に受けた衝撃。あの一瞬のすれ違いざまに入れ替えたのか。

「返せよ。それに、これも本人に返すべきだろ」

「ほんと、メダカくんはお人よしだね」

 彼女は呆れたように小さく息を吐いた。

「交番で見たんでしょ。アイツはお金に困ってないの。必要なのはカードや身分証だけよ。社会や経済と自分を繋ぐ鍵。それだけあればいいの」

 彼女は俺の手の中の白い財布を指さした。

「そんで、私にはその鍵は必要ない。お金さえあればいいの。win-winでしょ」

「じゃあ、俺は金もないし、その鍵だっていらないなら返せよ」

「だから言ったでしょ。保険は必要だって」

 彼女は俺の免許証をスマホの前にかざした。路地にまた軽い電子音が鳴った。

「まあ、でももうメダカくんは十分。これ、返してあげる」

 放られた財布を、慌てて両手で受け止める。

「じゃあ、とりあえず今日は連絡先を交換しよう」

 彼女はスマホを軽く振ってみせた。

「よろしくね、メダカくん」

予告

第二話『少女とマグロ』

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