ただの紛失届?
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部屋の隅々に重苦しい闇が溜まっていた。停滞した空気の中で唯一の 光は、ノートPCの画面が放つ 青白い光だけだ。その光が、じっと動かない男の輪郭を静かに浮かび上がらせていた。
静寂の中、規則正しい音だけが響く。
──カタ、カタ、カタ。
男の指先は機械的な滑らかさでキーボードを叩き、目ましい速さでファイルを精査していく。無駄な動きは一切ない。彼の脳内には最初から完璧な地図が存在しているようだった。
だが──画面に見慣れぬ新規フォルダが出現した瞬間、すべての動きが止まった。
キーの上で指が凍りつく。男は疲弊した眼光をそのフォルダ名に向け、静かに意味を解析し始めた。
数秒の静寂。やがて張り詰めていた男の表情が緩み、口元がゆっくりと吊り上がった。獲物を追い詰めた猟師のような、冷ややかな笑みだった。
「ふむ……。お前が必死に隠していたのは、これだったというわけか、フレディ」
カチリ、と一度だけクリック音が響き、フォルダが開かれる。放たれた眩い光が男の瞳に反射し、その /笑み はさらに深くなった。
警察署の内部は、相変わらず騒がしい蜂の巣のようだった。鳴り止まない電話のベル、椅子の軋み音、書類を抱えて行き交う署員たち。焦げ付いた安コーヒーの臭いが漂う空間の片隅に、一つの小さな背中があった。
受付デスクの前の椅子に、無造作な金髪の少年が座っている。
ロジャー・コックス。十七歳。
表向きは落ち着いているように見えたが، ジャケットの裾をいじる指先や، 定まらない視線が内面の動揺を物語っていた。
受付の署員が古いキーボードへの入力を終えると، うんざりしたように息を吐いた。
「──つまり、休み時間に教室にノートPCを置いたまま席を離れ، 戻ってきたら無くなっていた。……本当にそれだけだな?」
「はい……そうです」
ロジャーは声を平坦に保とうとしたが، 語尾がわずかに掠れた。
署員はファイルを乱暴に閉じると، 淡々と言った。
「分かった。受理したよ。後で担当の捜査官が確認するから」
「あの……もう、帰ってもいいですか?」
署員は近くのベンチを顎で指し示した。
「そこで少し待ってろ。担当の刑事が詳しい状況を聞きたがるかもしれんからな」
ロジャーが一瞬身体を硬直させた後، 諦めたようにベンチへ移動した。署員はロジャーのファイルを، デスクの隅に積まれた書類の山の一番下へと無造作に放り投げた。
『ノートPC盗難事件』
──ただの、ありふれた紛失届。少なくとも، この場の誰もがそう信じて疑わなかった。
ザックはだらしなく警察署へ足を踏み入れた。始業時間を過ぎていたが، 気にする様子はない。階段へ向かおうとした時، フィリックス警部の部屋から見えた光景に足を止めた。
ジェフリーがそこにいた。不遜な様子で脚を組み، 白髪交じりの老警部に軽口を叩いている。
「ジェフ」
ザックがドアフレームに寄りかかりながら声をかけた。
ジェフリーは顔を上げ، 悪戯っぽい笑みを浮かべた。「おや、おはよう、相棒! 相変わらずの遅刻だな」
「こんな朝早くに君を見かけるとはね。何か悪事でも働いたのか?」
「ただの通りすがりさ」ジェフはウィンクしてみせる。「大事な約束があるんだよ……私の『初恋の相手』とね」
ザックはその暗喩を理解し، 苦笑した。「なるほど、あの『古い』事件のことか。フィリックスに叩き出される前にさっさと行くんだな」
ジェフはジャケットの襟を整えると، ひらひらと手を振って去っていった。
ザックはフィリックスに向き直った。
「おはようございます、ボス」
フィリックスは冷淡にデスクの上へファイルを押し出した。
「無駄口を叩く体力があるなら仕事に回せ。新しい案件だ」
「せめてコーヒーを飲む時間くらいは……」
「自分のオフィスへ行け、ザック。今すぐにだ」
自室に入りドアを閉めると، 騒音が遮断された。ザックはデスクの上のファイルを開く。
──ノートPCの盗難……高校生、十七歳。
「パソコンの盗難だと? ちぇっ、もう少し骨のある事件を期待していたんだがな……」
──その瞬間。
室内に، 肌を刺すような冷たい空気が流れ込んだ。
ザックは驚くことなく، ゆっくりと部屋の薄暗い隅へ視線を向けた。
そこには──過去七年間، 片時も欠かすことなくそうであったように──彼女が佇んでいた。
四十代ほどの، 静謐な佇まいの女性。しかしその身体は不自然に折れ曲がっている。彼女は深淵のような眼差しでザックを見つめていた。
ザックは彼女の存在を無視し، 受話器を持ち上げた。
「ロジャー・コックスを、私の部屋に呼んでくれ」
控えめなノックが三回響き، ドアが開いた。ロジャーが部屋に入り، 緊張した様子で椅子に腰掛けた。
「私はザック・レスター。君のパソコンの件を担当する刑事だ」
「ロジャー・コックスです」
「よろしくな、ロジャー。まあ、堅苦しい手続きは抜きにして、ザックと呼んでくれ」
ザックは身を乗り出し، 親しみやすい笑みを浮かべた。
「まずは確認だ。パソコンには誰かが欲しがるようなデータが入っていたりするかい?」
「いいえ……ただの学校の宿題と، 個人ファイルだけです」
「怪しいクラスメイトや、敵はいるかい?」
「いいえ、僕に敵はいません」
「友達は?」
ロジャーの動きが一瞬止まった。視線が膝の上へと落ちる。
「──友達は、一人だけです」
「その友達のことは信頼しているかい?」
「もちろんです。彼は僕にとって、兄のような存在です」
「それは素晴らしい。彼とはいつからの知り合いなんだい?」
──その瞬間、部屋の空気度が凍りついた。
ロジャーの表情がコンマ数秒で一変する。静けさは消え去り، 全身が強張った。瞳から光が消え، 暗い敵意が宿る。
「……は?」
低い威嚇の響きだった。ロジャーは拳を強く握りしめ، 声を震わせた。
「そんな質問が、盗まれたパソコンと何の関係があるんですか?」
「待ってくれ、落ち着いて……ただの世間話のつもりだったんだ」
「くだらない質問ばかりなら……僕は帰ります!」
ロジャーは勢いよく立ち上がると، 足早に部屋を飛び出していった。
取り残されたザックは، 部屋の隅の女性の視線を感じながら، 困惑気味に頭を掻いた。
「一体何が彼の逆鱗に触れたんだ? ……あいつ、かなりの難物だな」
その日の夕方、海は荒れ狂っていた。黒い岩肌に激しい波が打ち付け、塩辛い飛沫が四方に舞っている。
この自然の猛威の中、一人の男が水平線を見つめて立っていた。髪を一本のポニーテールのように結んだ男だ。風が吹き荒れても、その身体は岩のように微動だにしない。
背後から規則正しい足音が近づき、背の低いハゲた男が隣に立った。
二人は無言で海を見つめていたが، やがてポニーテールの男が低く尋ねた。
「──それで?」
「パソコンは、手に入った」
ポニーテールの男は視線を動かさないまま言った。
「気に入っていただけたか?」
背の低い男は隣の冷たい横顔を見つめ، 静かに告げた。
「その傲慢さ……分不相応な野望は抱かないことだ」
ポニーテールの男からの返答はなかった。風は二人の周りで不気味に唸り続け، 暗闇の中へとすべてを連れ去っていった。
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