第13話 魔王城の朝
寝室の歪んだ窓ガラスが、魔界の冷え切った夜気と、俺の肉体が放つかすかな熱の境界線で白く曇っていた。
寝具を押し退けて身体を起こすと、重い空気がねっとりと皮膚にまとわりつく。
背骨の両脇にある翼の突起が、錆びついた鎖のようにギチリと軋む音を立て、筋肉の奥深くに鈍い痛みを走らせた。
目蓋の裏には、まだ昨夜の夢が残っている。
白い部屋と、カタカタと響くキーボード。
女神エリュシアの充血した目。
眠りは浅く、何度も目を覚まし、掌を見ていた。
指先が、わずかに震えている。
この非人間的な肉体の重みが、魔王として転生した事実を毎朝、無慈悲に俺に突きつけてくる。
窓の外を見遣れば、薄墨を乱雑に流したような混沌とした紫の空が広がっている。
太陽の昇らない魔界における「朝」とは、ただ地平の明度が一段階上がるだけの、極めて曖昧で怠惰な変化に過ぎない。
だが、耳を澄ませば、城の静寂はすでに内部から崩壊していた。
はるか下の訓練場からは、グロッグの甲高い怒声と、それに従うゴブリンたちの不揃いな足音が、微細な地響きとなって冷たい石壁を伝ってくる。
厨房の方向からは、硬い陶器がぶつかり合う音と、スープをかき混ぜる木べらのリズミカルな振動。
そして、廊下の向こうからは、ガルドスの磨耗した甲冑が擦れ合う、規則正しい金属音が近づいてくる。
それらの音が重なり合い、俺の意識を現実の重みへと引き戻す。
「……我が主。お目覚めでしょうか」
扉の向こうからの低い、掠れた白骨の声。
俺は寝衣の胸元を正し、浅い呼吸を一度整えてから応じた。
「ああ、入れ」
重い黒鉄の木扉が、蝶番の軋みと共にゆっくりと開く。
かつては敵であった元魔王の側近。
だが今は、その大きな甲冑の影が部屋に落ちるだけで、奇妙な落ち着きが胃の底に宿るのを意識する。
「南の火山地帯へ向かう準備、整いつつあります。……竜人族との交渉、一筋縄では行かぬでしょうが」
「わかっている。竜の血を引く者たちが、ただの言葉だけで首を縦に振るとは思っていない」
俺は床の冷たさを足裏の皮膚で確かめながら、硬い旅装を身に纏い始めた。
革ベルトを締め上げるたび、胸部に適度な圧迫感が加わり、肩の力が自然と抜けていく。
食堂の重い長テーブルには、湯気を立てる皿が並んでいた。俺が腰を下ろすのは、部屋の最奥に置かれた黒檀の主賓席だ。
その右隣にはガルドスが、さらにその先には、今朝の訓練を終えて兜を脱いだグロッグが、長い耳をペタペタと動かしながら座っている。
そして、俺の左隣。
そこには、磨かれた黒い木肌を露出させた、一脚の空席があった。
まだ誰も座っていない、空白の席。
将来ここに座るべき「刃」――四天王の影が、その不在の重力によって、逆に食堂の空気を引き締めていた。
その空白を見つめるだけで、俺の目の奥に静かな決意が宿る。
「魔王様、今朝はハーブを効かせたスライム核のスープと、大麦の粥です!」
リリィがトレイを慎重に運び、俺の前にスープボウルを置く。
彼女の手のひらに残るかすかな煤と、エプロンの端に染み込んだスープの匂いが、この城に確実に「生活」という名のコストが根付き始めていることを示していた。
「……いただきます」
グロッグが短い手を合わせて頭を下げ、すぐにお粥の木製スプーンを掴んだ。
昨日のような乱雑さは薄れ、彼なりに俺の前での作法を意識しているのか、こぼさぬよう慎重に口へ運んでいる。
その様子を、ガルドスが厳めしい顔で見守りつつ、自身も静かにスープを口に含んでいた。
「グオッ……魔王様、留守中の城の警備、このグロッグに全てお任せください。ゴブリン小隊は完璧に機能しております!」
「頼む。背後を突かれれば、我々の兵站が崩れる」
俺はスープを啜った。
魔草の苦味の奥に、リリィが工夫したであろう仄かな甘みが広がり、胃壁がじんわりと温まる。
かつての勇者パーティーでの朝食は、冷徹なアレスの指示を聞くためだけの時間だった。
味など二の次で、互いの腹の探り合いと息苦しさが空間を支配していた。
少しでもアレスの機嫌を損ねれば、次の戦闘での役割を削られる。
失敗すれば見捨てられるという恐怖のなかで、冷え切ったパンを無言で噛み砕くだけの暗い食卓。
だが、今のこの食卓には、互いの存在を当たり前のように受け入れ、それぞれの役割を全うしようとする「家族」の雛形のようなものが、確かに呼吸を始めていた。
「魔王様、リリィも本当は火山へ……」
リリィが後ろでエプロンの端をぎゅっと握りしめ、耳をぺたんと寝かせている。
その尻尾はだらりと下がり、かすかに震えていた。
「留守中の厨房を任せられるのはお前だけだ、リリィ。帰ってきたときに、美味い飯がなければ困る」
その言葉に、彼女の耳がぴくっと跳ね上がる。
「……はい!魔王様が驚くような料理を考えておきます!」
尻尾が再び、勢いよく左右に揺れ始めた。
俺は左隣の空席を一度だけ見つめ、ゆっくりと席を立ち上がった。
南へ進むにつれ、魔界の平原は乾き、赤黒い岩肌が剥き出しになっていった。
空気の粘度が変わり、喉の奥を火山灰の微細な粒子がかすめるたびに、イガイガとした不快な摩擦が残る。
呼吸をするたびに、乾いた空気が肺胞を直接削るかのように熱い。
一歩進むごとに、乾いた砂埃が舞い上がり、旅装の隙間から皮膚に張り付いて不快な熱を持たせていた。
「主よ。あの連峰の頂が、竜人族の領域です」
ガルドスが指差す先、黒煙を吐き出す巨大な山塊が、天を突くようにそびえ立っていた。
麓にたどり着いた頃には、周囲の気温は跳ね上がり、呼吸をするたびに肺の奥がじわじわと熱を帯びる。
その夜、俺たちは火山の麓の突き出た岩陰で野営を張った。パチパチと爆ぜる篝火の光が、赤い火の粉を夜空へと巻き上げていく。
「……雷帝ティアラ。レベル四十の竜人族戦士ですか」
ガルドスが、大剣の柄に骨の手を置いたまま、火の向こうで呟いた。
「正面からぶつかれば、今の俺のレベルでは手痛い傷を負うだろうな」
俺は掌を開閉し、そこに宿る魔力の気配を感じ取る。
勇者レインとしての記憶、魔王として転生して得た肉体。奪われた人生を取り戻すための道程に、避けては通れない壁。
「だが、退く選択肢はない。俺が彼らを選ぶように、彼らにも俺を選ばせる。そのための力を見せる」
篝火が大きく爆ぜ、俺の顔を赤く照らし出す。
熱風が髪を揺らし、乾燥した地表が熱を放出し続ける中、俺は静かに目を閉じ、明日訪れるであろう「激突」の感覚を全身に予感していた。




