第12話 ゴブリン将軍
ヴェルドラゴン城の荒涼とした訓練場。
頭上から降り注ぐ魔界の薄暗い陽光は、微細な硫黄の塵を孕んで澱んだ灰色に見える。
その不快な湿気を帯びた光の下で、金色の鎧を纏った一際大きな緑色の影が、忙しなく動き回っていた。
「グオッ! 姿勢が高い! 盾をあと指三本分下げろ! おい、そこ、鼻くそをほじるな!」
ゴブリン将軍グロッグだ。
彼が足を踏み鳴らすたび、かつての人間側の騎士から奪い取ったという歪な鎧が「ガシャ、シャラン」と噛み合わせの悪い金属音を立てて波打つ。
首周りのサイズが合っていないのか、防具の鋭い縁が動くたびに彼の長い耳の先端をペチペチと叩き、その都度グロッグは苛立たしげに長い耳を震わせていた。
鎧の隙間からは、擦れて赤くなった緑色の皮膚が覗いており、彼自身もこの戦利品の「重さと不快感」に耐えながら指揮を執っていることが窺えた。
「我が主、グロッグは極めて真剣に兵の再編成に臨んでおります。……ただ、いかんせん少々耳障りではありますが」
隣に立つガルドスが、眉間の骨の隙間を深く歪めながら報告を寄せる。
確かに、訓練場に並ぶ五十体のゴブリンたちは、グロッグの叫び声と「ガシャ、シャラン」という金属摩擦音に合わせて右往左往し、さながら狂ったゼンマイ玩具の群れのようだった。
泥濘を這いずり、滑って転び、槍を落としてはグロッグに怒鳴られるゴブリンたち。
だがその足並みは、昨日までのような無秩序な野生の獣のそれではない。
彼らの泥だらけの足裏が地面を蹴る規則的な振動が、かすかな地響きとなって俺のブーツの底を確実に揺らしていた。
「グオッ! 魔王様!」
俺の姿を認めるや否や、グロッグは短い脚を必死に伸ばして駆け寄ってきた。
勢いよく膝をつこうとした瞬間、脛当てが地面の岩の突起に引っかかり、金色の巨体が「おっとっと」と踊るように傾く。
どうにかバランスを保って跪いたものの、その反動で兜が前方にずれ、彼の黄色い視界を完全に塞いでしまっていた。
「……用件を聞こう、グロッグ」
「はっ! 我が軍の再組織化についてであります! ゴブリンは数こそ命! しかし頭脳は極めて薄弱! そこで、十体を一まとめにした『小隊』を作り、それを三つ集めて『中隊』といたします! さらにそれを三つ集めれば……ええと、つまり……」
グロッグは金色の手袋の隙間から緑色の太い指を突き出し、一生懸命に折り曲げ始めた。
額にしわを寄せ、長い耳を八の字に寝かせながら、彼は頭を抱える。
「十が三つで三十。それが三つで……九十。九十は、つまり……たくさん! 大隊であります!」
「九十だ」
「そうであります! 九十であります! さすが魔王様、計算の速度が我らとは違う!」
大真面目に胸を張るグロッグの肩当てが、また耳をペチリと叩く。
俺の脳裏をよぎる、昨晩の兵站の重圧。
だが、この鎧をカチャカチャと鳴らす小柄な「将」の、どこか抜けた熱意を見つめていると、頭の奥の強張りがわずかに弛緩していくのを感じた。
「良かろう。その編成を採用する。グロッグ、お前を訓練教官に任命する」
「グオッ! このグロッグ、魔王様のために、最強の『たくさん』を育て上げてみせます!」
夕暮れ時、ヴェルドラゴン城の食堂からは、昨日までの陰鬱な冷気ではなく、米の炊ける甘い湯気が漂い出ていた。
扉を押し開けると、木製の長テーブルの端で、リリィが巨大なすり鉢を抱えて奮闘している。
「あ、魔王様! ちょうど良いところに来てくれました!」
彼女の尻尾がプロペラのように回転し、背後のグロッグに視線を向ける。
「今日はグロッグさんも一緒にご飯です! リリィ、いっぱいおにぎりを作りましたから!」
「グオッ。この猫耳の娘が、美味い飯があるから来いと。魔王様、御一緒してもよろしいでしょうか?」
グロッグは金色の兜を小脇に抱え、長い耳をペタペタとさせながら恐縮そうに立っている。
俺が静かに頷くと、彼はまるで宝物を見つけた子供のように目を輝かせ、椅子に飛び乗った。
しかし、彼の短い脚では床に届かず、座面の上でぶらぶらと揺れる。
「コホン。魔王様の隣は、メイドである私の特等席ですからね!」
リリィがすり鉢をテーブルにドンと置き、俺의右隣の席をアピールするように腰に手を当てた。
まだここにはいない、かつての仲間の席を空けておく必要もない。
俺は無言で中央の席に腰を下ろした。
「さあ、魔界の塩と、グロッグさんから分けてもらった保存肉のほぐし身を混ぜた、特製塩むすびです!」
リリィが差し出したのは、彼女の手のひらよりも大きな、歪な三角形の塊だった。
炊きたての熱を含んだ湯気が鼻腔をくすぐり、塩気が食欲を刺激する。
「いただきます!」
グロッグが短い腕を伸ばし、おにぎりを両手で鷲掴みにした。そのまま大きな口を開け、文字通り顔面全体でおおにぎりに齧りつく。
「フゴッ! 美味い! 美味すぎるであります!」
咀嚼するたびに、青い米粒がグロッグの鼻の頭や、テーブルの上にポロポロとこぼれ落ちる。
リリィが「ああっ、こぼさないでください!
」とふきんを手に慌てて彼の顔を拭うが、グロッグはそれを気にする様子もなく、頬をリスのように膨らませて貪り食っていた。
「……ふん。品のない食べ方だ」
俺はおにぎりを一つ手に取り、口に運んだ。
粗い塩の結晶が舌の上で弾け、硬めに炊かれた米の甘みと、干し肉の凝縮された旨味が混ざり合う。
噛みしめるたびに、泥のように重かった昨日の疲れが、少しずつ喉の奥へと押し流されていく。
「魔王様、リリィの作ったおにぎり、美味しいですか?」
リリィが身を乗り出し、期待に満ちた目で覗き込んでくる。
「……悪くない。塩気が少し強いがな」
「やったぁ! もっと練習して、世界一のおにぎりを作りますね!」
彼女の笑顔と、隣で米粒だらけになりながら「グオッ、おかわり!
」と叫ぶゴブリンの姿。
かつての勇者パーティーの食卓が、ふと脳裏をかすめる。
そこには常にアレスが求める完璧な作法と、呼吸すら憚られる沈黙だけがあった。
アレスの機嫌を損ねないよう、全員が息を潜めて冷めきったパンを齧っていたあの暗い食卓。
少しでも咀嚼音を立てれば、アレスの「不快そうな視線」という冷たい圧力が全員を縛り上げ、次の戦闘での役割の割り当てを削られる恐怖に怯えさせた。
そこには、こんな「軽さ」も「温かさ」も存在しなかった。
俺は小さく息を吐き、残りの半分を口に押し込んだ。
食後、渋い茶を啜りながら、俺は再び作戦室へと戻った。
グロッグは膨くれた腹をさすりながら、今度は真剣な面持ちで戦略地図を見つめている。
「魔王様。南の火山地帯に住まう『竜人族』ですが……彼らは強者を何よりも重んじる種族であります。我が軍の数を見せつけても、おそらく鼻で笑われるだけでしょう」
「力での交渉か。元より、言葉だけで従う種族とは思っていない」
俺は黒鉄の重りを弄び、その冷たい鉄の質感を指先に浸透させた。
「しかし、魔王様が直接行かれるとなれば、奴らもその『格』を認めざるを得ません。我が主の持つ圧倒的な威光を見せつけてやるのであります!」
グロッグが兜を被り直し、カチャリと鎧の胸当てを叩いた。
今度はサイズが合っているかのように、その仕草には奇妙な誇らしさが宿っていた。
「……ああ。俺が直接行く。四天王の名に相応しい強者を、この手で繋ぎ止めるために」
俺の言葉に、グロッグは深く、今度はよろめくことなく頭を下げた。
食堂から漂う温かい残り香が、冷たい石造りの作戦室に、かすかな余韻を残していた。
グロッグが退室した後、レインは一人、地図の上に重ねた手を開いた。
指の先に、竜人族の領域を示す朱色の境界線が触れる。
この線の向こうへ入るのは、力だけでは十分ではない。
四天王の第二の座を埋めるのは、剣ではなく、誠意だ。
俺はその言葉を確かめるように、もう一度地図の朱色をなぞった。




