第10話 新たな勇者の噂
沼の主の《再生》スキルを強奪してから一週間、ヴェルドラゴン城を中心とする俺の支配領域は、半径五里へと緩やかに広がっていた。
しかし、その程度の規模は、他の老獪な魔王たちに比べれば、魔界の砂漠に浮かぶ微小な塵に過ぎない。
「……北の魔王アズガロスは、領地半径二十里。五百を超える魔軍を統率していると地脈の風が告げています」
ガルドスが、磨り減った戦略地図の上を白骨の指でなぞりながら言った。
「それに比べ、我が軍は三十体強。今は他の魔王と争う時期ではない。まず必要なのは、人間界の動向だ」
俺は窓から吹き込む乾いた冷気を胸に吸い込み、境界線の町「ゼロ」への潜入を決断した。
境界線の町「ゼロ」は、人間界の大結界の残光と魔界の瘴気が衝突する、不毛の境界地帯にへばりついていた。
街を走る舗装の半分は黒い地衣類に覆われ、もう半分は白く乾いた無機質な石のままで、そこを歩く境界民たちの目には、どちらの世界からも見捨てられた者の冷淡な警戒心が沈んでいた。
俺はフードを深く被り、ガルドスと共に薄暗い酒場の扉を押し開けた。
脂の焦げた匂いと安酒のアルコール臭が鼻腔を突き刺す。
カウンターの奥で、片目を黒い眼帯で覆った男が、汚れだらけのグラスを汚れた布で拭いていた。
情報屋ジャック。
「……何にする、新顔。その背中の不格好な翼、隠しきれてないぜ」
ジャックはグラスを置かず、ただ薄汚れた隻眼を俺のフードの奥へ滑らせた。
「人間界の、王都の情報を買いたい」
俺はカウンターに魔界の金貨を一枚、静かに滑らせた。
金貨が木板に当たる鈍い音が、周囲の雑音を一瞬だけ吸い寄せた。
「へえ、新興の魔王様が人間界に何の用だ? ……まあいい。三日前、ルミナス聖王国の大聖堂で『勇者召喚』の儀式が成功したそうだ。連れてこられたのはアレス・ブライト。異世界から来た、ただの学生崩れの小僧だ」
ジャックはそこで一度、グラスの縁を指で弾いた。
薄い音が、酒場の濁った空気を小さく裂く。
「面白いのはな、その小僧、召喚直後に『帰りたい』って叫んだらしい。だが神官どもは拍手でかき消した。聖女は微笑み、王は涙を流し、民衆は奇跡だと叫んだ。本人の声だけが、儀式の音楽に沈んだ」
アレス。
その名前が鼓膜を通過した瞬間、俺の左胸の奥が引きちぎられるように激しく脈打った。
かつて聖剣を握っていた右の指先が、何もない空中で勝手に内側へ収縮し、爪が掌に食い込んだ。
ジャックは俺の動揺を見逃さず、冷笑を浮かべた。
「あれは、女神と世界の理が便宜上組み合わせた、役割の集まりだった。互いの内面を暴くことすら禁じられた、檻の中の家族だ」
と、前話の記憶が掠める。
「そして――その新勇者の隣には、聖女セラフィナがすでに侍っているそうだ。お決まりの通り、な」
「……口を慎め」
「怒るなよ。勇者と聖女は結ばれる運命。お前も、元は『そのお決まりの運命』の中にいた勇者だったんだろう? レイン」
ジャックの隻眼が、値踏みするように俺を射抜いた。
「俺の代わりに、彼が世界を救い、俺の代わりに、彼が彼女の隣に立つ。そういう運命だ」
俺はテーブルに右手を叩きつけた。
ミシミシと木板が悲鳴を上げ、ジャックは両手を軽く挙げてみせた。
「わかった、余計な詮索はここまでだ。金貨はいただくぜ」
酒場を出た俺は、ゼロの町を囲む白い瓦礫の山の上に立ち、人間界の境界線を見つめた。
風が強く吹き、フードが捲れ上がる。
「動揺しているか、我が主」
「……当然だ。俺から奪われた席に、今、アレスという少年が座っている」
三年間、この世界を救うために戦い抜いてきた。
光の魔法を操り、魔王軍の幹部を屠り、聖女セラフィナの隣で明日を誓い合った。
戦いの合間、たき火の煙に目を細めながら、彼女が漏らした「役割が終わったら、どこへ行こう」という小さな呟き。
それらすべてが、女神の「桁一つ」のミスで無に帰した。そして今、同じ道をアレスという少年がなぞろうとしている。
俺の喉の奥から、乾いた砂のような自嘲の笑いが漏れた。
怒りはある。
だが、その怒りの底に、もっと厄介なものが沈んでいた。
アレスは俺の椅子に座った侵略者ではない。
俺の死体の上に、何も知らず座らされた生贄だ。
その事実が、復讐の刃先をわずかに鈍らせる。
「だが、これでいい。奴らの10手先を行く。アレスがこの魔界のヴェルドラゴン城に到達するまで、通常の『勇者としての』成長速度を考慮しても、最低で半年はある」
その半年の間に、俺は魔王としての城を完成させ、アレスの「正義」という名の操り人形としての運命を正面から叩き潰す。
叩き潰すのは、少年そのものではない。
彼の喉から「帰りたい」を奪い、代わりに「世界を救え」と叫ばせる仕組みの方だ。
「ガルドス。人間界の監視体制を確立する。新勇者のレベル上昇速度、セラフィナの日記の動向……すべてをこの城の脈動に繋ぎ止めろ」
「御意に、我が主。その半年の空白、私のすべての魔力を持って埋めてみせましょう」
「そして、魔王軍の幹部――『四天王』を揃える。世界が用意した敵役としてではなく、俺の意志で選んだ家族の刃としてな」
ガルドスが、その錆びた甲冑を深く折り曲げ、月光の下で深く平伏した。
「最初の四天王として、あなたの盾であり続けます」
俺は人間界の光の澱みをもう一度睨みつけ、踵を返して魔界の暗闇へと歩き出した。
これから半年。
四天王を集め、城を完成させ、人間界の目を張り巡らせる。
そして、アレスという名の「新しい勇者」が、この魔界のどこかに存在する俺にたどり着くその時まで。
二度と、あの桁一つのミスで流された泥の中に、戻ることはない。
そして次にアレスの声を聞く時、俺は彼が本当に何を望んでいるのかを、必ず確かめる。




