凍える夜の明ける事情(2)
――アロネがイリヤの元で働けたのは、神の思し召しに違いない。
かなりの熱量で語られるそれを聞きながら、イリヤは照れ臭さと共にひたすら自身を省みていた。
最初こそアロネの本心ではなく保身で物を言っているのでは? と疑心を抱いた――ものの。
彼女の語るイリヤへの褒め言葉は口先だけのおべんちゃらではないことはイリヤ本人が一番知っている。
アロネほど忠順な者はそういない。
(……分かってる)
その忠誠をある意味で裏切っていたのは。
初めての経験に冷静さを見失っていたことを理解すると、これまでの自分がまるで得体の知れない何か恐ろしいモノになった気がした。
ほんの一瞬前までアロネがひどく憎かった、妬ましくて何をしていても疎んじていたことすら信じられない気持ちになる。
靄がかったようだった視界が突然晴れたように澄んで、それまで身内に鳴り響いていた不協和音が静まる。
あの魔除けに似た重い金属音がこのところイリヤを責め苛み、追い立てるようで不快だった。
振り返れば、アロネのことを許そうと考える度にそれに襲われていた気がする。
まるでイリヤを唆し、脅すように。
(自分の心のことなのに不思議ね……)
アロネが掛け値なく手放しで自身を褒め讃えていることに呆気にとられ、すぐ我に返って羞恥が顔を出して思わず遮った。
アロネに語らせた彼女の人生の多くは他者視点からでも困難に塗れていたけれど、それを救ったのは他でもないイリヤなのだと言われた時に、素直に嬉しく擽ったい気持ちが湧き上がった。
同時にそんな彼女を嫉妬から疎み、思い知らせるためにも側仕えであるはずなのに近寄らせなかった。
半年も経たない短い期間なのに、恋愛に重きを置き全て振り回されている怖さに触れた気がする。
背後にいるゲイルがアロネを案じることすら苛立って、アロネさえいなければ彼の心までも自分に従わせることが出来ると思っていた、さっきまで本当に、本気で、そう考えていた。
アロネを追い出してまで手に入れたい、そう願った。
そのアロネは――彼女たち親子はこちらの促しがなくとも、自然と名乗りを上げて和解している(と言って良いのか分からないものの)姿を眺めながら、温かい気持ちになって、ふと内心で首を傾げた。
これまでの自分自身にようやく違和感を覚える。
初恋と呼ぶには幼かった憧れの人との再会。
あの頃の面影を笑顔に見た――はずだった。
(……ゲイルはカイユの兄で)
隣にいて、笑ってくれた。
(私の隣で?)
ゲイルはカイユの兄であったけれど、イリヤに対して優しかったがそこまで気安くなかった気がする。
でも思い出す笑顔は、イリヤに向けた優しいもの。
(……仕方ないな、と笑って)
ふと目の前に座っているブレアに視線を向けた。
彼がアロネたち親子を見る瞳、ほんのりと微笑んでいる表情に息を飲んだ。
幼い頃に会ったことがあるという、イリヤのお転婆時代をよく知っているブレアの顔と、若い頃のゲイルの顔が重なった。
(――え、ひと……人違い?)
思わず背後をそっと振り返る。
そこには何とも言えない切ない表情をしたゲイルがいた。
イリヤが自分を見ていることが視界に入ったのだろう。視線をこちらには向けずに、すっと感情が消えた。
その瞳には熱をひとつも感じない。
過去の優しさの残像すらない。
きっとイリヤへの嫌悪感をあえて出したのだ、と分かって頭から冷水を被ったような心地になりつつ、内心狼狽えながらも前を向いた。
(仮に人違いだとして……)
例えそうだったとしても。
淡い初恋だったからという理由でゲイルにこの焦がれるような恋心を抱いたわけではない。
もちろん大前提として、憧れの人だったという記憶がきっかけだったけれど、決してそれだけではなかった。
ぼんやりとしたゲイルの面影が、はっきりとした形になって、成長した姿でイリヤの前に現れた。
ダナレイのように甘い容貌ではなく、ブレアのように精悍でもない。
再会した時はただひたすら不潔極まりない汚れた姿。
窶れて痩けた頬、掻痒と虫に集られたからであろう目を背けたくなる肌の痣、長く伸びた髪と髭のおかげで露出していた鼻の辺りだけ日に焼けた顔。気が抜けるような飄々とした物言いには苦笑するしかなかったし、あの時初恋の残滓がさらさらと砂のように崩れていった。
けれども、その落ちた砂礫は落ちた場所でまた、今度ははっきりとした恋の形を作る。
汚れを落とした時にはあの頃の優しいゲイル、更にそこに年齢と共に落とせぬ昏い陰は、これまでイリヤが見てきた大人の男にはなかったもの。
それでも生きることを諦めていない命の輝きが瞳にあった。
――ほしい、この人がほしい。
大人になったイリヤが初めて感じた女としての欲求と切望。
そのこれまで味わったことのない甘美な感情に酔ってしまったのだろう。
自分が恋したと自覚してからは囲い込み、奪おうとする敵から隠し、いざとなれば権力でゲイルを押さえつけてしまうつもりだったこと。
それこそゲイルが最も嫌うやり方で、それが透けて見えたからこそ今現在彼と物理的に近くとも心の距離ははるかに遠い。
それがしっかりと見えた。
本当に、本当についさっきまでアロネを子供共々追い出してしまえばいいとまで考えていたし、そうすることでゲイルを独り占めできると思い込んでいた。
(そんなもの! 叶うはず、ないじゃない……っ!)
ゲイルの自分へのあからさまな態度――イリヤは雇用主であるという明確な線引きと、こちらへの恋情のようなものを一切見せない――は彼女を排除することでより頑なになったかもしれないし、追いかけて出て行ってしまったかもしれない。
イリヤ自身の気持ちなんて、ゲイルにとってはどうでもいいことだ。
気持ちの矢印が一方通行なのに、なぜゲイルがイリヤを選ぶと思ってしまったのだろう。
これが身分があった頃のゲイルならともかく、現在の彼を縛るものはない。
例えイリヤが泣いて縋ったとしても、彼とは何一つ関係ないのだ。
思わず縋るような気持ちでアロネに視線を向ければ、アロネは我が子たちに寄り添っていて、イリヤはその教会で見る物語のような眩しい光景に胸が痛んだ。
そこにはいつもイリヤの心を慮り、優先してくれていた彼女のアロネはいない。
シュウとリョカ、彼らの母親、彼らだけのアロネ。
イリヤは心許ない気持ちになった。
ゲイルを求めても振り払われ、アロネを求めれば彼女にイリヤはもう必要ないように感じた。
ゲイルにとってアロネは愛で埋まる心の欠片であり、アロネにとって代わりだったイリヤではなく本物の欠片が嵌め込まれた。
――では。
では、イリヤの心のこの隙間は、すかすかの隙間は。
イリヤは置いて行かれた子供のように、ぼんやりと目の前の母子像を見つめていた。




