久方ぶりの事情(2)
イリヤと荷運びを手伝うゲイルが道すがらしている話は当然アロネたちにも聞こえていた。
彼の印象は「とことん運の悪い人」。
怪しい男だった彼はイリヤの古い知人らしいと分かり、護衛として付き添うエド夫妻はその警戒を解いた。
見た目に見窄らしい姿は、確かに裏通りの物陰や治安の悪い一角に陣取るよくない人間のそれである。
エドたちもアロネと同じ身分のない平民であるので彼のような姿の者は見慣れている。だからこそ警戒したのだろう。
――匂いについては、臭いけれども。
まあとにかく大変で可哀想が多い人生なのだな、とアロネは思う。
イリヤが聞けばアロネも大変で可哀想だと言うかもしれないが、姑は自分の命を狙ってきたわけでもなく、外で寝かせていたわけでもなく、面倒なだけで危険はなかった。
命の危険と隣り合わせの日々は想像できないくらい辛かったろう。
けれど、当の本人はどこか楽しげに語っていて、きっとそういう根なし草のような暮らしが実は気に入っているのかもしれないなと思った。
そういう意味ではアロネと同じ。アロネもまたイリヤから暇を出されれば、行く宛などない。
ただし彼がアロネと違うのは、彼自身は死んだことになっているために、階級的な身分でなく、出自を示せないので誰かの紹介や家の力なんかが使えないということだ。
アロネは元夫との関わりと横の繋がりで知人から領主館の仕事を斡旋してもらい、うまいこと採用されてイリヤと繋がりができた。もし暇が出されても、イリヤかミーナから紹介状や退職金をもらえるだろう。それが次の仕事や行き先や住み処に繋がるのだ。
だが、彼にはそれがない。裏打ちされるものがないから、きちんとした仕事に携わることは出来ない。きっと微々たる報酬の日雇いしかないだろう。
なんとか一食食べるほどの金額だから身なりを整えるまで出来ず、またその身なりから嫌厭されるから街町の中にはいられない。寝るなら外れで、土の上。
それでも生きていれば何とかなるもんだと笑う姿に、尊敬のような気持ちを抱いた。
ゲイルとイリヤの関係性ははっきりと分からないが、イリヤの元婚約者の名がカイユと聞いたことがあるのでそちらの人なのだろう。
と、いうことは身分ある方なのだな、と。それなのにそういった暮らしを憂いていない。
身分などないアロネですら土の上で寝たり、日雇い仕事で食い詰めるのは嫌だと思うのに。
ゲイルの見た目は物乞いでも所作が違う。イリヤと話している時の姿勢などがやはり物乞いとは違っているなあ、と、それにも感心していた。
そしてナイナが懐くのは何となくわかる気がした。
瞳が優しいのだ。
もじゃもじゃした髪や髭で表情は分かりにくいけれども、目はきらきらつやつやしている。ナイナという少年と同じような瞳の輝き。
それはイリヤにも見えることがある。
この前の厨房での焼き菓子作り、庭での果実の摘み取りの時。
夜更かしして星を眺めた夜、早起きして靄がかる山間に朝日が昇るのを見た朝。
子供の頃の自由時間、思い出をひとつひとつ語ったあの日。
アロネには経験したことのないぴかぴかと眩しいそれ。聞いているとまるでイリヤと記憶を共有していくようで嬉しくもあり、自分にはどこか暗い色褪せた思い出しかないことが切なかった。
(イリヤさまの思い出――んん?)
そういえば、とアロネは語らう二人を見た。
イリヤさまの初恋は、元婚約者の兄だったとか。その方は教養を深めるために他国を巡っていたけど、行旅死亡人となったと聞かなかったか。聞いた、確かに聞いた。
「……なるほど?」
あのゲイルと名乗った男がそれの可能性がある。というかそうだろう、確実に。
現在のイリヤにその頃を懐かしむ雰囲気はない。相手と真逆の難しい顔で彼の話を聞いて首肯している。
まあ、彼の見た目がアレなのだから、当時の甘酸っぱさなど霧散してしまっただろう。
でも、あの髪を。せめて前髪だけでも切って。髭を剃ってしまえば。嫌なら紳士的に口髭だけ残して。
湯浴みしてもらって、虱を取って。
ああ、お腹いっぱい食べてもらって体型を戻してもらわないと。長く食べていなかったなら、あまり食べられない身体になっているかも――と、アロネはこれからゲイルをイリヤの知っている姿に戻すことを決めた。
あの恥知らずだって好きにしている。イリヤにだって浮気相手がいたっていいだろう。
イリヤは我慢し続けている。本当はわりと短気で、おひめさまなのにちょっとどけ口も悪くて、民のことを優先にする優しいひと。
ちょっとぐらい報われたっていいじゃないか。初恋相手と本気の恋に落ちても。たとえ恋に落ちなくても、支えになってくれれば。
幸いゲイルに行き場はない。
実家に帰っても、領主の長男であるゲイルとしての人生は終わってしまっている。きっと彼は両親に会ってきちんと別れを述べたいだけだろう。
そう、どうせ根なし草なら、イリヤの側にいればいい。アロネだけでは埋められないものを埋めてくれたらいい。
ゲイルの両親もこれからを当然心配して身分についてはどうにかするかもしれない。けれど、それはこちらでも出来ることではないか。
生家に戻ったあと、行く宛てなどなく好きに生きるなら邸に仕事はいくらでもあるし、アロネと同じ付き人にすれば衣食住は心配ない。この職から離れることになっても紹介状が貰えるようになる。
働くのは領主館ではないし、イリヤが認めれば自由もある。
アロネたちはイリヤの世話をしているし、続けるも辞めるも自分次第で任されている。その決定はイリヤが下すが、本来の雇い主というのはダナレイだ。領主夫人という肩書きに丸投げしているため、すっかり忘れているが。
ゲイルはイリヤ個人が雇ったことにすればいい。文句など言えるわけがない。
それに、この村の歴史が好きならイリヤがいる間じっくりと調べられる。
この先ここを出ることもあるかもしれないが、それならそれで新たな場所の歴史を知れるのだから悪いことではないはずだ。
そう考えると心が跳ねるように年甲斐もなくうきうきとしてきた。
とても良いことに思えて口角が自然と上がる。
心なしか足取りも軽い。薹かごの重さも心地よく感じて駆け出したいほどだった。
一方、イリヤとゲイルにはひんやりとしたムードが流れていて、それに気付いたアロネは気を引き締めた。
(いけないいけない、勝手にイリヤさまの気持ちやこれからを決め付けてはダメ。あくまでも私の希望でしかないんだから……)
村長の家の前でゲイルは足を止めてしまった。
イリヤの結婚相手を知って、驚いているらしい。イリヤのあの突き放すような物の言い方は怒っている証拠だ。
ゲイルはイリヤが幸せだと思っていたのだろう。
ちょっと考えれば相手がダナレイだとすぐに分かったはずだ。
ここらへんはダナレイの領だと知っていたのだし、あの男がもうずいぶん若い頃から入れあげている女がいたことも知っていたに違いない。
ミーナやシャルから聞いた話だと、ダナレイとその女の関係は領内外問わず身分ある者の間で有名な話ではあったのだという。
ゲイルからダナレイが相手なのかと確かめられ、アロネはそうだと答えた。
その様子からやはりダナレイの良くない噂が真実だと知っていたのだろう。
――そして怒っている理由を知らないかときた。
そんなことアロネがいちいち教えてやれるわけがない。イリヤも後でと言っているのに、余計なことなど言えない。
殆ど物乞いのように、世捨て人のように生きてきたゲイルにはイリヤの噂を知る余裕も伝手もなかったのだからどうしようもないと分かっている。
(あなたの弟にろくでもない目に遭わされたから、更に酷いダナレイなんかに妻として添わされたのですよ、王の命令で! じゃなきゃイリヤさまがダナレイと添うことなんてないと分かるでしょうに! 私みたいな平民と違うんだから、可能性を色々考えたら分かるんじゃないの!?)
そう叫びたかったが、言っても仕方ないこと。
イリヤの話を聞いて、ゲイルがいないことで起きた顛末を少しは考えてくれるといいのだけど、とアロネは嘆息した。




