過去の事情(2)
王太子と結婚した少女は結婚が撤回になったことを知らされると泣きわめいて暴れたという。その日のうちに遠くの領地に連れていかれ封じられた。王太子の意向を汲んだ王妃による、混乱の隙をついた甘い処分であった。だがこの時城内にいた王女側にそれは知らされていない。
彼に嫁いでしまったのならともかく、王女は未だ婚約者であり他国の賓客という扱いである。
そのまま数週間留め置かれた。
その間王と王妃、要職者からのご機嫌伺いはあっても、王太子は一切姿を見せなかった。
それに対しても、王女を含め遠い国の者たちは腸が煮えくり返る思いを飲み込んで事態が動くのを待った。
――果たして本当に王太子は同盟の重要さを理解しているのか? これが彼らの共通認識であった。
ひいては王たちの脇の甘さが招いたことでもある。更にそのような状況も遠い国に伝えることは出来たはずなのだ。
ようやく王女が玉座の間に招かれ、公式にこの国へ嫁ぐ者として王たちと正式な挨拶を交わすことになった時には、この国に対する信頼や友好的なものは消え去っていた。
王女側の数人が遠い国に事態の正しい内容を知らせるためとんぼ返りしていたことも、情報収集のため放たれたことすら把握していない王家に彼らは一様に残念な気持ちを持った。
我が国の王女が嫁ぐ先として相応しくない、嫁ぐ前から蔑ろにされるような国と同盟など大丈夫なのか、と。
「こちらとしましては最悪の結果になりましても構いません。この国での我が国に対する考え方はよくよく理解できましたので」
王女の国の大使がにこやかに淡々と語るのを青い顔で聞いているのは王太子以外のこの国の者たちだ。
また王女が微笑みを崩さず一切口も開かず、何を問われても首肯すらしないことにも血の気の引く思いを感じていた。王太子以外は、である。
問題の王太子は、ぼんやりと場を眺めているだけだった。
王女が挨拶の口上を述べた時も、一瞥したきり。何の声も出さない。単なる置物と化していた。
本当にこんな男が兵を率いていられたのか、と思うほどである。
この国の身体的特徴として、遠い国の者と比べて男女共に大柄であり肉付きが良い。髪と瞳の色は赤毛や赤茶、赤錆や黒。当然王太子もその特徴通りの男であったが、今はまるで寿命の近い老犬のように疲れ項垂れている。
対して遠い国の者は色素が薄く、体つきも細く見える。王女は王太子より四歳下の十六歳であったが、こちらの者と違ってまるで子供のような体型だった。
そのせい、だろうか。参列者の中に遠い国の者を蔑むような様子が見えた。こそこそと陰口のような、侮る視線と共に。
おそらく一対一でなら体格差によりこの国の強者に劣る可能性はある。だが遠い国は軍国として兵の鍛練等に心血を注いでいる国である。体格差などものともしないよう小回りの効く技術をも磨いている。
国の戦は試合でも遊びでもない。一対一で力比べをするような場ではないのだから。
――お前らが侮る我が国の助力がなければ今頃攻め落とされていた癖に、という嘲りを吐き出したい気持ちに大使たちは駆られたが耐える。
ある種の緊張感、一触即発な雰囲気を王や王妃、要職者らは臓腑の痛みを覚えるほどに感じて青くなる。
そんな中、口上後は黙って微笑んだままの王女がその愛らしい口を開いた。
「私は、その者と結婚致しません。同盟は破棄致しましょう」
ざわ、とその場にいた者たちが騒めく。自国の王太子を『その者』と呼ぶ不遜さに怒りを覚えた者が多いためだ。
「……お静かに。騒いでいる者は我が国の敵対者とみなします。どうもこの国の者どもは同盟というものを軽く見ておられるようですわね」
王女は微笑みつつも、うんざりとした口調でこの場にいる者たちの顔をゆっくり首を動かしてひとりひとり確認するように見渡す。
「開戦をお望みなようで。私はもとよりこの国ではいずれ王妃となる心構えもありましたけれど、きちんと人質としての覚悟も持ってここにおりますのよ。ですので、私の首を取るならお好きにどうぞ――但し」
す、と真顔になる。その冷たい表情と語られた内容に、騒つきがしん、と静まる。
「簡単には人質にはなり得ませんのよ? 我が国は私を人質とは思いません。意味はお分かりですわね? それに私も黙って命は差し上げられませんので、ささやかな抵抗はさせていただきますわね」
にっこり、と言葉とは裏腹に艶やかな笑みをたたえた王女の周囲を大使たちがそっと囲む。臨戦態勢である。剣などは玉座の間に入る前に預けてあるが、隠し持つものまでは渡していない。
彼らは王女を守るため、王の近衛や周囲の戦力を測っている。
「……よい」
この場の全ての者の視線が声の主に注がれた。
それは王の側に控えて項垂れていた王太子のもので、彼は今その顔を上げている。疲れや憂いを滲ませてはいるものの、精悍な顔つきの偉丈夫である。
何もなければ愛せたかもしれないわね、と王女はあったかもしれない未来を思った。
「私のことで両国の名に傷を付けてしまったことの詫びとして王女殿の要求は受けよう。だが、同盟は成して頂きたい」
「……は、それはそれは。大層都合の良いこと」
眇める王女から冷たく吐き出された言葉に王太子は目を伏せる。彼は玉座に座っている国王の耳元に口を寄せた。
「陛下、今後は我らだけで話をつけた方が宜しかろうと思われる。場の解散を」
「お前は……」
誰のせいで、と怒鳴りたい気持ちを抑え、国王は王妃と共に玉座から立ち上がると場の解散を言い渡し、王家と重鎮らなど主要人物以外がいなくなると王女の前に膝を付く。王太子もそれに倣った。
周囲の者らは息をのみ、一瞬のちに慌てて彼らも膝を折った。まるで高い波が岸に寄せるよう順々に頭の位置が下がっていく光景を王女は冷めた気持ちで見ていた。
服従ではないが、これは神に許しを乞う行為であり、神の御前以外では膝を折らない王が王女に許しを求めていると理解した彼らの中には気色ばむ者もいたが、多くは現状を把握している者が多かった。
王女はぐるりと首を巡らせ、不機嫌な様子を隠さず言葉を紡いだ。
「――許します」
王女は『結婚はしない、同盟も破棄する』と啖呵を切ったものの、本来裁量権がないのに勝手に言い切ってしまった。自国の根回しが済まぬうちに事を起こし、相手に膝を付かせたならばここは許すしかない。 苦々しく思いながらも、その気持ちも流すしかなかった。王女は怒りを逃がすために鼻から大きく息を吸った。
この国はなんとか命を長らえた。
けれども王太子と王妃が少女を封じた領地こそ現在ダナレイが治める地であること、それが王家に蒔かれた頭痛の種を育てることになるなど、この頃の彼らには思い至らぬことであった。