155笑う男(アリエル)
「タツヤ……。ね、帰ろう。」
霞がそっと、手をタツヤの背中に添えるのですが、タツヤの反応はなかったのです。
背中が小刻みに震えているように見えます。雨が降っているせいでしょうか、下を向いたタツヤの画面からは雨水が滴り落ちているのです。
「ね、アリエルちゃん。」
「わかっているのです。けど、ちょっとだけ気をもらいたいのです。」
「えぇ、いいわ。」
わかっています。もうここいても意味はないのです。ここからアースホールへと転移魔術で戻ります。
ノヴァリスでは、あの魔女も転移魔術も使っていたようですが、あたしでも転移魔術は使えるのです。
ただ、気、魔力の消費が大きいので、霞の指にそっと口をづけして気を分けてもらいます。
いつもならば、思い切りしゃぶってたくさん気をもらうのですが、今はそんな気分ではないのです。
霞の指に少しだけ口づけし、必要最低限だけをちょっとだけもらうのです。
「行くのです。タツヤを頼むのです。」
「えぇ、準備はいいわ。」
そっと優しいオーラのようなものがあたしと、霞。そして、タツヤを包み込むと、徐々に周囲の風景は切り替わり、
そして、ふと気づけば、そこはアースホールの中なのです。
真っ暗な闇、そして、その奥からはポワンと光る球体が見えてくるのです。
アースホール、時間も空間も歪んだ世界、どこにもでも行けてしまうような夢のような場所。
でも、ここに来ると、強烈な眠気に襲われるのです。タツヤは寝てしまったのでしょうか。
霞がタツヤの体を支えてますが、意識はないようです。
霞が念じると、暗闇の中からポワンの光る球体が見えてきます。
近づけば、それは久しぶりのラビリンスの街並み、そして、Dランク冒険者がたちが集まる安マンションが見えてくるのです。そして、その球体に触れると、その球体に取り込まれるように世界は徐々に変わっていくのです。
こうやって、タツヤと霞の住んでいるマンションまで戻ってきたのです。
タツヤを部屋のベッドに寝かせるのですが、相変わらずタツヤはスヤスヤと寝ていて起きる様子はないのです。
「大丈夫そうね。あたし、いったん戻るね。夕飯の準備をしてくるね。」
そう言って、霞はタツヤの様子を確認すると、自分の部屋にいったん戻りました。
今はタツヤと二人。タツヤは、少し落ち着いたのか、今はベッドの上でスヤスヤと寝ているようでした。
あれだけのことがあったのです。あたしにすれば、単なる人違いなのでしょう。でも、タツヤからすれば、たった唯一の機会を失ったのです。失望は大きいはず。今はゆっくりと休養してもらうのです。
―――
こうやってタツヤの部屋まで戻ってきたのですが、落ち着いてしまうと、とても暇なのです。
タツヤはスースーと寝ているし、特段、あたしもやることはないのです。
こんなときは、冷蔵庫に入れておいた美味しいケーキをおいしくいただくに限るのですよ。
ケーキを美味しく頬張っていたところ、ベッドの上からガサっと音がしたのです。
「ふははははははっ。」
そして、突如として笑い声が聞こえたのです。何事かと思えば、目覚めたタツヤが突然、狂ったように笑い始めたのです。
「ははははははっ。」
たぶん、周りに誰もいないとでも勘違いしたのでしょう。でも、アリエルはちゃんとここにいるのです。
きっとあれだけのことがあったのですから、気がおかしくなるのもわかりますよ。
けど、少し、というか、とても心配になって、声をかけてみます。
「タツヤ……。」
「………。へ?」
そこで、ようやくあたしに気づいたのか、タツヤと目が合いました。
一応、あたしがいるからか、平静は取り繕っているようですが、すでにあたしはすべてを見ていたのです。もう、遅いのです。けども、おかしくなる気持ちもわからくはないのです。
タツヤは平静を装ったまま、
「アリエル、少し出かけてくる。」
と、どこかへと出かけていきました。
信用されてないのか、絶対来るんじゃないのと、念を押されましたが、今は一人にさせてあげるのです。
―――
タツヤが出かけてから、しばらく時間は経過します。
まぁ、暇なので、こんなときは、冷蔵庫に入れてあるケーキを食べてました。妖精の胃袋は無限大なのです。
とそんなときに、
ガチャ
とドアが開きました。タツヤが戻ってきたかと思ったのでしたが、隣人の霞だったのです。
「よっ!元気?」
「………。」
と、いつもの霞はまるで違う雰囲気なのですが、無言の空間がしばらく続き、タツヤがいないとわかると、徐々に霞は顔を赤らめるのです。可愛いのです。
「タツヤならいないのです。どこかへ出かけたまま戻って来ないのです。今は一人にさせてあげるのがいいのです。」
「そ、そう、なの。コホン、ちょっと元気づけてやろうかと思っただけよ。わざと夕飯を多めに作ったから、一緒に食べようかと思ってさ。」
と見れば、両手で鍋を抱えていたのです。
霞が部屋の中の机の上に鍋を置いて、タツヤの帰りを一緒に待つことにしたのです。
………。
でも、まったく一向に帰ってくる気配なかったのです。
「遅い!」
とついに霞はしびれを切らせたときに、
ピンボーン!
と、インターホンのチャイムが部屋の中に響いたのです。
きっと、タツヤが帰ってきたのでしょうか。